浄土真宗は仏教なのか? [本(仏教]
『浄土真宗は仏教なのか?』
藤本晃(テーラワーダ、浄土真宗)
サンガ(2013)
初期仏教の視点から真宗教学の再構成を考えるもの。
ただし相当に時代錯誤の印象を受ける。
浄土系の仏教が初期の仏教と異なることや、
その問題点の指摘は
その成立のときから指摘されていた。
著者は、初期仏教との違いから浄土真宗の教義を再検討したつもりらしいが、
そもそも今の浄土真宗の教義は、
大乗非仏説との対決の中で、比較的近年に誕生したもののはずである。
浄土系の経典は偽経と繰り返すが、偽経とは一般には、
インドで書かれたと称する中国で作られた仏典を言うのであって、
ゴータマ・シッタルダの発言とは思えない浄土系の経典に対しては使わない。
初期仏教の経典も死後百年程度経って成立し、直説ではないのであるから相当疑わしく、
浄土系など後に成立したものと比べても程度問題と考えるのが普通。
通常は初期の経典が直説の比率が高く、後になるほど徐々に下がると考えるのに、
著者は自分の判断した線の前後で経典単位で、100%と0%に分けてしまっているようだ。
著者はそれが仏説だと嘘をついていることがそもそも問題であるとするが、
古代人に著作権の考えなどなく、
古今東西、古代の文献は著名人に仮託する形式が非常に多いので、
この考えを採ると古典文献の半数以上は破棄されてしまう。
また大乗経典はすべて如是我聞、我聞如是で始まっている。
"私はこう聞いている"と始まっているので、論理的には嘘ではない。
古代文献の多くは、誰か一人が勝手に言い出したというより、
複数の人間により伝承される間に変形していくものであり、
誰かが嘘をついたというような問題ではないのだ。
そもそも宗教に歴史的事実を求めては、ほとんどの宗教文献は無意味であろう。
釈尊自身は、私がいったことだからと信じるのではなく
内容をよく考えて受け入れなさいと言っており、
それが仏説かどうかにはそもそも問題にならない。
真理かどうかがすべてなのである。
輪廻転生が前提だが、極楽浄土が作り話なら輪廻転生だって作り話だろうし、
釈尊自身は死後については無記であり、輪廻も方便の可能性もある。
極楽浄土は悟りを開く場所、往生は成仏ではないというが、
これは当然で、著者が紹介する意見はそもそも浄土真宗でも異端であり、
その程度の異端が許容される程度の寛容さはあるのである。
他力とは自分で道を切り開いているのに
後から自分の力ではないと感じられることとするが、
これは明らかに誤りであろう。
よくある自力を極めた後に他力と認識されるという誤解である。
往生でも悟りでも大事なのは努力や苦労ではなく"気づき"である。
自分の内に秘めた仏性に気づくかということなのだ。
親鸞聖人が信心を強調したのも、
法然上人が一心に念仏することを勧めたのも
気づきのための心の姿勢が重要だからである。
"お釈迦さまは善友がいるだけで、
悟りまで100%導かれると太鼓判を押している"というが、
これは間違い。釈尊は、
私は道を教える者であり、それでも道を間違えるものがいるものだと、
悟れない人がいることを認めている。
著者は、スマナサーラを招いて瞑想など自力修行をし、
功徳回向を説くなら西本願寺派を離れてからにせよと追放宣告を受け、
西本願寺派から離れて単立寺院になったらしい。
これは仕方ないだろう。浄土真宗の本質を直接否定するようなものだし、
そもそもスマナサーラの言うことを100%受け入れて疑ってないから、
テーラワーダ>浄土真宗と宣言しているに等しく許容されないのは当然だ。
著者はまあスマナサーラ信者ということだ。スマナサーラは著書を読む限り、
(仏教は心の科学、般若心経は間違い?、わたしたち不満族)
とても悟りを得たような人物ではなく、あまりにも無知がひどいんだけども……
著者には、釈徹宗の書籍などを読んで
浄土真宗について勉強することをお勧めする。
・今日の一言(釈尊の言葉)
伝統的にありがたがっているからといってそれは真理の証拠にはならない。
Even though it is a traditional thing, it won't be evidence of the truth.
전통적이라고 고맙게 생각한다고 해서 그것이 진리의 증거가 되지 않는다.
虽说是因为传统的东西而尊敬,但这并不是真理的证据。
藤本晃(テーラワーダ、浄土真宗)
サンガ(2013)
初期仏教の視点から真宗教学の再構成を考えるもの。
ただし相当に時代錯誤の印象を受ける。
浄土系の仏教が初期の仏教と異なることや、
その問題点の指摘は
その成立のときから指摘されていた。
著者は、初期仏教との違いから浄土真宗の教義を再検討したつもりらしいが、
そもそも今の浄土真宗の教義は、
大乗非仏説との対決の中で、比較的近年に誕生したもののはずである。
浄土系の経典は偽経と繰り返すが、偽経とは一般には、
インドで書かれたと称する中国で作られた仏典を言うのであって、
ゴータマ・シッタルダの発言とは思えない浄土系の経典に対しては使わない。
初期仏教の経典も死後百年程度経って成立し、直説ではないのであるから相当疑わしく、
浄土系など後に成立したものと比べても程度問題と考えるのが普通。
通常は初期の経典が直説の比率が高く、後になるほど徐々に下がると考えるのに、
著者は自分の判断した線の前後で経典単位で、100%と0%に分けてしまっているようだ。
著者はそれが仏説だと嘘をついていることがそもそも問題であるとするが、
古代人に著作権の考えなどなく、
古今東西、古代の文献は著名人に仮託する形式が非常に多いので、
この考えを採ると古典文献の半数以上は破棄されてしまう。
また大乗経典はすべて如是我聞、我聞如是で始まっている。
"私はこう聞いている"と始まっているので、論理的には嘘ではない。
古代文献の多くは、誰か一人が勝手に言い出したというより、
複数の人間により伝承される間に変形していくものであり、
誰かが嘘をついたというような問題ではないのだ。
そもそも宗教に歴史的事実を求めては、ほとんどの宗教文献は無意味であろう。
釈尊自身は、私がいったことだからと信じるのではなく
内容をよく考えて受け入れなさいと言っており、
それが仏説かどうかにはそもそも問題にならない。
真理かどうかがすべてなのである。
輪廻転生が前提だが、極楽浄土が作り話なら輪廻転生だって作り話だろうし、
釈尊自身は死後については無記であり、輪廻も方便の可能性もある。
極楽浄土は悟りを開く場所、往生は成仏ではないというが、
これは当然で、著者が紹介する意見はそもそも浄土真宗でも異端であり、
その程度の異端が許容される程度の寛容さはあるのである。
他力とは自分で道を切り開いているのに
後から自分の力ではないと感じられることとするが、
これは明らかに誤りであろう。
よくある自力を極めた後に他力と認識されるという誤解である。
往生でも悟りでも大事なのは努力や苦労ではなく"気づき"である。
自分の内に秘めた仏性に気づくかということなのだ。
親鸞聖人が信心を強調したのも、
法然上人が一心に念仏することを勧めたのも
気づきのための心の姿勢が重要だからである。
"お釈迦さまは善友がいるだけで、
悟りまで100%導かれると太鼓判を押している"というが、
これは間違い。釈尊は、
私は道を教える者であり、それでも道を間違えるものがいるものだと、
悟れない人がいることを認めている。
著者は、スマナサーラを招いて瞑想など自力修行をし、
功徳回向を説くなら西本願寺派を離れてからにせよと追放宣告を受け、
西本願寺派から離れて単立寺院になったらしい。
これは仕方ないだろう。浄土真宗の本質を直接否定するようなものだし、
そもそもスマナサーラの言うことを100%受け入れて疑ってないから、
テーラワーダ>浄土真宗と宣言しているに等しく許容されないのは当然だ。
著者はまあスマナサーラ信者ということだ。スマナサーラは著書を読む限り、
(仏教は心の科学、般若心経は間違い?、わたしたち不満族)
とても悟りを得たような人物ではなく、あまりにも無知がひどいんだけども……
著者には、釈徹宗の書籍などを読んで
浄土真宗について勉強することをお勧めする。
・今日の一言(釈尊の言葉)
伝統的にありがたがっているからといってそれは真理の証拠にはならない。
Even though it is a traditional thing, it won't be evidence of the truth.
전통적이라고 고맙게 생각한다고 해서 그것이 진리의 증거가 되지 않는다.
虽说是因为传统的东西而尊敬,但这并不是真理的证据。
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