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光武帝の誕生日ということで後漢関連で最近読んだ本 [本(東洋史]

『全訳後漢書〈第1冊』
范曄(歴史家)
汲古書院(2001)


巨無覇は蓬莱から来たと称す

劉縯は劉秀を馬鹿にしていた

租税の滞納について説明により劉秀は評価された

宛城陥落の三日後に偽手紙

宋書では万修が中山で赤伏符を献じる
のちに彊華も献じて一致

執金吾は月に三回首都を巡回する

皇帝の四つの文書:策書、制書、詔書、誡勅

天子の行くところには恩沢があるので幸という

孫登が皇帝になったのは春秋保乾図に名前があるから

庶人:一度罪を得て後に許された民爵を持たないもの
良民と区別される

博士弟子の選抜試験、射策

賈覧は漢軍を三度退けた強力な将軍

闕門において外国からの貢納、
官僚や百姓からの上章が取り次がれて皇帝と生民の直接交流が行われていた

建武26年千石以上の給与は減らし六百石以下を増やした

建武中元という元号も普及していた

明帝は下顎がふっくら

章帝の功績:五経の整理と白虎観会議

洛陽の人一戸一匹
洛陽城外の者は三戸一匹

☆☆☆☆☆
洛陽は城外の人口が多そうだ。


『全訳後漢書〈第11冊〉列傳(1)』
范曄(歴史家)
汲古書院(2004)


属正とは都尉のこと
母嫺都は性格がしとやか

劉嘉は早く父を亡くし劉秀の父が養う

前隊大夫とは南陽太守

李通は刀を見て言った

范曄の論で鄧禹は徒歩で来たと明記

安帝は若くして聡明と言われていた

莵肩とは葵に似た植物

霧が出る。
朱鮪は岑彭が去ったと思い黍を収穫させる。
そのとき岑彭が朱鮪を破る。

賈復の名声は匈奴にも届いており、
賈復の子の賈武孺が太守をつとめる朔方郡に近づかなかった

馮異の返事に劉秀に指示に従って戦うと必ず勝ったが、
自分で判断すると不安がある

『全訳後漢書〈第12冊〉』
范曄(歴史家)
汲古書院(2007)


後漢では都尉は辺境の属国のみ

五校の首領に杜猛と董敦
劉歆は処刑される前に劉秀は真にお前達の主であると言った

竇融に黄金二百斤
爾書で独立してもよいと言及

竇憲の功績は衛青らを上回るのに賞賛されないのは死に方が悪いため

馬援は朱勃に旧恩のままへりくだり
▽卑侮之を"これにへりくだる"と読めるだろうか?
朱勃は名門馬家に恩顧のある人間であるから
昔の恩を笠に着て馬鹿にしたと読むべきではないか?

歩庫で蚩尤をまつる
蓋延は十万を率いて劉永を破る
法律の整備に活躍したのは侯覇
県令の子が奴隷とどで遊び誤って子を殺すも赦免
馮勤を尊貴にさせた者は実にこの老母である
拝礼を免除して御者に助けさせた
多くの婦人を赤眉から助けた趙きを賞賛

☆☆☆☆☆
馬武への台詞は自首なのに……


『東アジア世界史の展開』
青山学院大学東洋史論集編集委員会
汲古書院(1994)


郭皇后の廃后問題について南陽vs.河北と見る論文がある。

光武帝が個人的に官僚を任命することができなかったほど
強い規制を受けた権力だった。
▽これは予言書による任命への反対だがこれは規制といえるのか?

軍備縮小の対象の10人の将軍のうち四人が河北豪族
蓋延、呉漢、耿弇、劉植
▽蓋延と呉漢はそれぞれ軍の要職で現職のまま亡くなっているのだが。
▽劉植は軍縮以前に死去している。
▽そもそも呉漢は南陽の人だし、耿弇は関中の人

度田の反乱は河北でひどい
▽青州と徐州がひどかったはずだが

☆☆☆☆☆
南陽vs.河北の考えがおかしいのはまず、史書には南陽系は考えられても、
河北がまとまったものと見られていないこと。
そもそも河北は南陽の十数倍の面積と人口があり広すぎる上に、
関中や南陽出身者まで河北系にカウントしている。
そのぐらい無理矢理に拡大しないと
南陽系と対立できる数が集まらないわけで、
この考え方がいかに荒唐無稽がよくわかる。


『中国古代の律令と社会』
池田雄一(東洋史)
汲古書院(2008)


李克と李悝はおそらく同一人物

前241年8月女性が背後から斬られ気を失う間に1200銭奪われる。
犯人は窃盗の常習犯。
商人が使う値札を残して捜査を攪乱。
刀を持ったことがないという犯人の帯ひもに刀の痕跡を見つけ自供に追い込む

後漢になって律令が典籍化

魏書刑罰志:後漢の二百年間は律令に大きな変更はなし

戸籍は県吏が直接調査
戸籍は里にある

尹湾六号漢墓の人口統計では男が女より多い。溺女の結果か


『齊地の思想文化の展開と古代中國の形成』
谷中信一(東洋哲学)
汲古叢書(2008)


斉の現実主義、功利主義

逸周書と六韜の重複部分29
淮南子の重複部分:
孫ビン兵法14、孫子13、六韜8、尉繚子6

管子と老子の関係はどちらが先とは言えない

晏子春秋墨家説
晏子を主人公とする短編小説集
晏子の思想は愛民、節倹、礼、合理、尊賢


『秦漢刑罰体系の研究』
陶安あんど(東洋史、ドイツ人)
創文月(2009)


文帝による有期刑の導入も
明確な有期刑の導入は魏か晋

死刑が七種類ある

宮崎市定:秦の滅亡は高度な商業化にあり

後漢中期以降は労役刑が金銭により贖罪される率が高まった

前漢:奴は1.5万銭。

一日の庸賃は30銭。


『秦漢における監察制度の研究』
王勇華
朋友書店(2004)


孫文の四権分立:立法、司法、行政、監察

後漢の御史台の設立により観察機構が完成した

刺史の職務変遷など
刺史の監察対象は二千石と豪族


『後漢における「儒教國家」の成立』
渡邉義浩(中国古代史)
汲古書院(2009)


王莽の符命革命と光武帝の図讖革命
白虎観会議で儒教国教化が完成

後漢儒教国家の儒教の特徴:
宗教性の強さ。国家制度との緊密性。臣下に対する配慮

劉秀に対して用意された緯書を劉備に合わせて修正した


『秦漢刑法研究』
水間大輔(東洋史)
知泉書館(2007)


棄市は斬首

p137に傷害と刑罰の一覧表

秦の刑罰は主犯従犯の区別なし


gokankokkajpg.jpg 『漢代国家統治の構造と展開:後漢国家論研究序説』
小嶋茂稔(東洋史)
汲古叢書(2009)


後漢の基盤は南陽ではなく河北
南陽は劉秀に反乱すらした
河北に随行したのは潁川の人たち

豪族の糾合ではなく郡県制統治機構の掌握

p329に功臣の封地変遷表あり

光武帝が夢に出てくるぐらい後漢の勉強をしないといけない、か……


『漢時代における郡県制の展開』
紙屋正和(東洋史)
朋友書店(2009)


一般人は所属する郷の嗇夫から前科のない旨の証明をもらい、
県の認証をへて過所の発給をうけ、旅行していた

県の仕事一覧あり

裁判の権利は郡が県より強い。
中央への貢献は郡。人材推挙も郡。

江幡真一郎:
後漢が天子の夭折と中央政府の混乱にもかかわらず
帝国が長くもったのは地方政治がうまくいっていたから

後漢では尚書はまだ三公にとってかわってはいなかった。
尚書は人事のみ

光武帝は県や道の官吏を削減したが郡国の属吏は充実し始めた
前漢東海郡の属吏は93人、後漢会稽郡は500人余り
列曹が増えた

イナゴではなくバッタが正しい


『漢代の地方官吏と地域社会』
高村武幸
汲古叢書(2008)


前漢末の官吏数は12万人以上
景帝は官吏の任官制限を
財産10万銭から4万銭に引き下げた

材官騎士は官吏に準じた身分、給与はない
三老、里正、里典も官吏に準じるが給与はない

九千字書けて官吏になれる
高祖劉邦と廬綰は郷里で文字を学んだ。
普通の農家の子弟も文字を学んだ
前漢の奴婢にも文字の知識はあった。
秦以降文字の知識は特殊ではなかった。
一般庶民に文字の知識が普及していた

史は試験による資格。

漢代の官吏はみな帯剣している
成人すると帯剣する

官吏の出張は一日30-40kmを移動
交通許可証の伝。旅行目的が記載され伝舎と従者が利用できた

長安に行く師饒の餞別。
最高は1000銭最低は100銭。多数は200-300銭


『秦漢律令研究』
廣瀬薫雄
汲古叢書(2010)


李悝、商鞅、蕭何の法律編纂は虚構、秦漢に法典なし

秦漢時代の律は皇帝の制詔によって一條ずつ制定、
律も令も同じ

『九章律』は経書

故事が律令に似た強制力を持つ
令とは詔のこと。律とは詔によって定められる規定

前漢末後漢初に『九章律』が作られ蕭何に仮託される
後漢初の法律家は儒生である、『律経』『法経』という儒学の経典

律は経書として倫理的規範、法規定としての実効性を失っていた

旧制と故事は同義
尚書台で故事を収集し保存
漢家故事は南宮に収蔵し尚書台が保管

踐更とは一年に二、三ヶ月だけ働く非常勤官吏

王莽は三十万の大軍を集められず匈奴攻撃はしなかった


『中国古代貨幣経済史研究』
柿沼陽平(古代中国貨幣経済史)
汲古叢書(2011)


銭=国家的決済手段論
漢代の銭=国家的支払手段、
黄金=贈与物、
布帛と穀物=経済流通の中心

塩と鉄を外部から購入することが貨幣経済の農村への流入の契機

建武十六年の五銖銭の復活は銭納人頭税のため

殷周の時代も宝貝は貨幣でなく
生命と再生のシンボルとして贈与されるのみだった

黄金一斤=一万銭、一布=十一銭

通銭=銭を国境を越えてやりとりすること
行銭=公認青銅貨幣
盗鋳組織は任侠が多い

会稽と予章郡の没収により銅山と鋳銭を失う、
呉の財源を失う、呉楚七国の乱の引き金に

民間では銭は秤量貨幣、国は決済貨幣
前漢武帝~平帝期の五銖銭総量は280億枚
民間の商取引に銭では足りない

地方官吏の月奉が布帛で支払われることも

秦では185cm×57.8cmの布が行を認められる

戦国秦には機織=女の仕事、
家内分業としての婦織の政策原則があった

布帛=民間供給型貨幣、銭=国家供給型貨幣

塩鉄の一般小農民購入者は基本的に布帛を官に納めた
布帛が塩鉄用の決済手段

漢代の銭は国家への支払手段であり、
黄金は贈与のために使われ、
布帛と穀物こそが経済流通の中心であった。


『入門 中国思想史』
井ノ口哲也(中国哲学)
勁草書房(2012)


夏王朝から始まる思想史のテキスト
白鳥庫吉と顧頡剛の夏の否定

仁とは困難なことを優先し利益を後回しにすること
仁とは自分が立場を得たいなら他者をそうさせて、
自分が目的を達成したいなら先に他者をそうさせること。

儒とは孔子のことではなかった

老荘は淮南子より
老子は楚の人

古文派の特徴:
師の説の継承の伝統を軽視し章句=注釈を守らない
複数のテキストをマスターする

後漢時代は製紙技術、製鉄技術、紡織機械、
造船技術、土木建設技術が高水準に達し
天文学、数学、医学、薬学、農学、地理学が基本体系を確立した時期


『中国古代刑制史の研究』
宮宅潔(東洋史)
京都大学学術出版会(2011)


解放された奴は直ちに庶人となったのではなくしばらく私属となった

後漢初期の獄は二千あまり

光武帝は建武六年に辺郡以外の常備軍の撤廃

・今日の二言(本文より)
Women could receive rank if their father or husband was killed in the line of duty and no eligible male successor existed.
父や夫が公務により死亡し、適格な男性の後継者がいないならば、女性が爵位を継承することができた。
아버지나 남편이 공무에 의해 사망되고 적격인 남성 후계자가 없으면, 여성이 작위를 계승할 수 있었다.
父亲或者丈夫因为公务死亡而没有合适的男性继承者,女性就能继承其爵位。

天地之性人為貴。其殺奴婢,不得減罪。
この天の地の性質として、人であるから貴いのである。故に殺したのが奴隷でもその罪を減らすことはできない。
그 하늘과 땅의 성질로서 사람이기 때문에 귀중한 것이다. 그러므로 살해한 사람이 노예라도 그 죄를 줄일 수는 없다.
The nature of heaven and earth says that value derives from being human. Therefore if you kill a slave, you cannot receive the favor of clemency.

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