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易のはなし(岩波新書) [本(東洋史]

『易のはなし/高田淳/岩波新書/1988』
著者:中国思想
評価:ニーダム、ライプニッツ、カプラ、ユングと王船山の易論の解説

六十四卦が天地の変化、万物の変相をすべて網羅するという。
乾坤両卦の自己運動として六十二卦の変が生じる。
太極即両儀、両儀即四象、四象即八卦。
筮竹を繰り卦を出すまでの作業を、宇宙生成と考えると面白い。
すなわち、宇宙がビッグバンから生まれ現在に至るまでを
象徴していると考えるのである。
するとその作業を行うことは、宇宙=時空間の外に立つことを意味する。
スピノザのいう、永遠の相の元に現象を観るということである。

人は今現在の自分のいる場所の視点からものを見て考える。
時に世界全体を考える人がいても、
それは今という時間から考えるのである。
易はさらに越えて、時空の外からものを考える。
囚われたものの見方から精神を解放する儀式と考えれば面白い。

そして出た卦の有効性は偶然の力による。
発想法として有名なKJ法のように考えればよい。
易の構造を理解して、
それを利用することこそ君子の易というものだろう。

偶然とは、私から見て未知の原因のことである。
自分の知識に限界があることを知り、
自分に対する懐疑を持つことができる人は偶然を認めることができる。

しかし自分に懐疑を持つのは意外に難しい。
そのため、人はしばしば不可思議な原因を見出そうとする。
多くのオカルト現象がそれである。
そういう人の多くは、科学ではわからないことがあるといい、
怪奇な現象を想像して原因を求めるのだ。

その人たちは、科学には限界があるといいながら、
自分の知力に限界があることに気づいていない。
人類全体の知恵の結晶たる科学を疑いながら、
自分に対しては疑いを持たない人。
オカルト好きな人とは、科学を疑い自分を疑わない人である。

科学を信じ、自分を疑う人は、オカルトに原因を求めない。
それを偶然と認め、自分の思考を反省して考察するのである。

偶然を偶然として扱う易は、なかなか面白いと思う。

『長安/佐藤武敏/講談社学術文庫/2004』
著者:東洋史学
評価:漢と唐の長安の構造を知る・資料

市では漢唐とも商品の種類ごとに店が分かれて並んでいた。
さらに唐は行というギルドを結成し価格協定を行っていたらしい。

『後漢思想の探究/田中麻紗巳/研文出版/2003』
著者:中国古代思想
評価:王充、王符らの思想を知る

周礼によると、復讐できるのは五代後の子孫まで。
爺さんの爺さんの親までは敵討ちの対象にできる。
ただし、敵討ちはその当人に限られるらしい。

後漢の科学技術者張衡。
天文観測器や地震計の製作を製作した。
張衡は現実と現象に注目する科学的精神を持っていたという。
後漢は中国史上初めて科学者が生まれた時代でもある。

張衡は科学精神を持っていたから、図讖非難の上奏をした。
しかし特にお咎めはなかったらしい。
後漢は思想は自由なのである。

光武帝は図讖を否定する相手を弾圧したと書かれることがあるが、
実際に殺された人物はいないし、
排斥された人物には大物はあまりいないのである。

王符の『潜夫論』には、殺人請負人の記述がある。
洛陽に殺し屋たちがいたわけだ。
後漢の中期の腐敗を示しているが、
これは王莽の時代の長安も同じだろう。
こういうネタを光武帝の若い頃にからませると面白いかなと思っている。

『楽浪-漢文化の残像/駒井和愛/中公新書/1972』
著者:中国考古学
評価:後半の文物の話が面白い

漢代のうちわは貴婦人の服飾具。風を起こすものではないらしい。
おしゃれのアイテムなわけね。

日本に漢字を伝えた王仁は楽浪の王氏。
韓国人ではなく中国人です。

『中国古代の祭礼と歌謡/M・グラネ/東洋文庫/1989』
著者:中国史、支那学、社会学
評価:詩経の由来を知る

詩経国風の大半は農民の田園季節祭の恋愛民謡、古代の祭礼。

春と秋に季節祭がある。
河のほとりや丘の上での春秋の祭礼をし、
低地の草深い牧場か鬱蒼たる樹木の下に集まり、
唱和歌で挑戦し合い、後に裾を上げて川を渡る。
また相互に花を贈り合うという。こうして男女が相手を見つけるわけだ。

春の祭りで婚約相手を選び、秋の祭りで成婚する。
秋とともに同棲生活に入る。

礼は庶人に下らず。庶人は祖先の廟を持てないという。
庶人の生活は違うわけで、
こうした農村の習慣は漢や唐でも残っていたのではないかと思う。

『中国の神話・伝説/伊藤清司/東方書店/1996』
著者:中国古代史、民族学
評価:志怪小説集・資料

不老の薬草に、東北の地日草、西南の春生草というのがあるらしい。

束鹿県の斜め井戸には、
喉の渇いた光武帝が
兵士にひっぱらせたため斜めになったという言い伝えがあるらしい。

『緯書-中国古典新書/安居香山/明徳出版社/1969』
著者:支那哲学
評価:怪しい予言書が面白い

図讖は予言書、緯書は経の解釈書のこと。

緯書は道家の母体でもある。
道教経典に緯書の引用されるのだ。
光武帝の即位の祀りは後の道教にも取り入れられている。

緯書には王莽の時代のものがない。
王莽の時代には図讖はあっても緯書はなかったようだ。

ある緯書には、
父母に孝行だと2000点がつく。天に記録されて褒美ありという。
親孝行まで点数化するとは、さすが現世的で記録好きの国である。

劉氏が天命を受け帝位につくと瑞気が軫宿に現れ、
五星が井宿に集まるらしい。
光武帝の即位のときはどうだったんだろう。

こうした天人相関説、
考えてみればよく似たことを今の日本のマスコミもいっている。
何か特異な殺人事件を報道し、これを時代の現れだというもの。
全く関連がないものを象徴として受け取るのだから同じである。

例えば最近の首斬り事件などは、社会とは関係なく、
神経障害(精神障害ではない)を疑うべきだろう。

『孝経-中国古典新書/林秀一/明徳出版/1979』
著者:支那哲学
評価:本文の解説より後半の研究部分の方が多く興味深い

十三経の中で最初から経と名づけられた唯一の書が『孝経』
孝を最高の道徳とし、宇宙形成、万物創造の最高原理とするのだ。
まず親を愛すこと。
それが親から疎へ及ぼしていくのが孝の原理である。

愛が身近なところから遠くへと広がるのは、
心理学的にも正しいと言えよう。

・今日の一言
科学を疑う前に自分を疑え。
Before doubting science, doubt yourself.
과학을 의심하기 전에 자신을 의심해라.
怀疑科学之前,怀疑你自己。

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