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宗教学入門(講談社学術文庫) [本(哲学思想]

『宗教学入門』
脇本平也(宗教学者)
講談社学術文庫(1997)


人類学的観点から宗教を比較し理解する。良書。

カトリック会堂での祈りは色彩豊かな十字架像を見上げるが
プロテスタントは目を閉じて頭をたれるという。
なるほど~、そんな違いがあるとは。

ジェイムズが挙げる宗教的神秘体験の特徴
表現が不可能、直観的洞察、一過性、受動感。
言葉で表せず、直観的に悟り、一瞬で現れ、
自分からの獲得ではなく、外からやってくるのだ。

さて……
宗教の方法と、科学の方法の違いとは何か?
宗教の神秘体験は一見、科学と正反対に思える。
しかし、そうだろうか?

科学の仮説はどのように生まれるのか?
それはある瞬間に直観的に生まれるのだ。
ニュートンのリンゴ、ケクレのベンゼン……

仮説形成は宗教の悟りに似ている。
この点において宗教と科学に大きな差はない。
違いはその後である。
科学には、検証というという作業が待っているが、
宗教では、信じるか信じないかである。
科学は疑うことが前提にあるが、宗教は信じることが前提にある。

科学は"善悪を決定しない"。
それは"善悪を決定できない"とのは異なる。
より主体的、より積極的に"決定しない"のである。
なぜなら、科学は不断の運動であり、変化し続けていくものだからだ。
物質の根源の探究も、原子から素粒子、超ひもと進んでいく。

科学がその説を仮説と呼び、絶え間ない検証を浴びせ続けるのは、
万人が納得するものを求めるからである。
科学が、全世界に共通する、
宇宙そのものの言葉というべき数学で記述されるのもそのためである。

対して宗教は、むしろそれを終了させるためにある。
人生には限りがある。
人は永遠に考えることはできない。
いつかは行動しなくてはならないのだ。
だから宗教では、"善悪を決定する"。
そして人を行動へと押し進めるのだ。

科学は思考であり、宗教は行動である。

だが、"善悪を決定する"ということは、
"善悪を正しく決定する"こととは限らない。
もしも宗教が善悪を正しく決定しているなら、
世界に宗教は一つしかなくなるだろう。

例えば、カソリックとプロテスタントでは、
中絶についての善悪が違うのである。
しかし、信じる人にとっては善悪は決定されている。

宗教は、善悪を個人的に決定し、行動へと導く。

それに対し科学は、善悪を公共的に追究するのである。

もしも、万人に通用する善悪を求めるのなら科学によらねばならず、
自らの行動の善悪を今すぐ求めるのなら宗教によることとなろう。
もちろん、その両方を行っても矛盾はないはずだ。

『いのち-生命科学に言葉はあるか』
最相葉月(ノンフィクションライター)
文春新書(2005)


生命科学者や哲学者とのインタビュー集。

哲学者・鷲田清一
リアルとは自分の周りのものは思い通りにならないと
思い知らされること

逆にいうと、バーチャルとはまさに
何でも自分の思う通りにしてしまう世界ということだ。

生命科学者・柳澤桂子
死に自己決定権はない。
自ら死を選ぶ自由はないというわけ。

仏教的な縁起の考え方だ。
縁起とは、偶然の中の必然を読みとることである。

『自由の平等』
立岩真也(社会学者)
岩波書店(2004)


所有と分配の根拠を考えました。

政府が生産物を分配する根拠などの考察。

私は、こういう問題は根拠の問題ではなく、
ある政策をすれば何が起こるかを考えて、
その中から選択するべきものと思うので、
こうした根拠を考えることはそれほど有意義とは思えない。

社会学者の役目は、適切な予測を提示することであり、
それを一般の人が判断して、政治家が実行するべきと思う。

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