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弟を殺した彼と、僕。 ~ 修復的司法への道 [本(法律と犯罪]

『弟を殺した彼と、僕。/原田正治/ポプラ社/2004』
著者:殺人事件被害者遺族
評価:死刑問題を考える資料に・被害者不在の裁判への異議の書

光市母子殺害事件についてブログで語られるのを読むと、
かなりの確率でこの本が挙げられている。
しかし、相当に構造が違う。とても同じレベルで語ることはできない。
被害者は弟であること、
犯人と著者が顔見知りであること、
計画的な保険金殺人であること、
犯人の三人目の殺人であること、
犯人が反省し月に何通も手紙を書いて送っていること、
犯人の長男が自殺したこと。

光市母子殺害事件について言えば、
一般に知られている事実関係を見る限り
その罪が極刑に相当することはそう問題ないと思われる。
極刑が死刑なら死刑、無期懲役なら無期懲役だろう。

問題は、死刑制度そのものの必要性だ。
死刑の必要性について考えるには、刑罰の効果を考える必要がある。
刑罰の効果はおよそ三種類考えられる。

1.刑罰により犯人を更正させる教育効果。
2.刑罰により社会における犯罪を抑制する効果。
3.刑罰により被害者の感情を納得させる効果。

1の教育効果は、死刑では放棄される。
これははっきりと死刑の欠点である。

2は意外に難しい。
死刑に犯罪抑止効果があるかどうか。
これはその社会の状態により違う。
フィリピンでは死刑廃止により犯罪が増えたとされ、
死刑が復活してしまった。
果たして日本は死刑廃止が犯罪数を増やしてしまう社会か、
そうでないのかの分析が必要となる。

3についても難しい。
殺人事件では被害者は死んでいる。納得は不可能である。
遺族や周囲の感情が問題となる。
遺族には、この本の著者のように死刑に反対する人もいれば
死刑を望む人もいる。
周囲の人間には、人間の命が平等というなら、
命を奪ったものの命は奪うべきと考える人もいるだろう。

この著者の場合、加害者と面会し死刑に反対する道を選んだ。
美しくはあるが困難な道である。
一体、この著者のように犯罪事件に真っ向から向き合おうとする遺族が
どれだけいるだろうか。
みなこのように生きていけるわけではない。
著者もその代償に仕事や家族を失っている。

被害者遺族にはさっさとヤツに死んでもらってこのことを忘れたい、
そういう人も多いだろう。
忘れるために殺して欲しいという感覚があると思う。
やり直すための儀式として死刑を望むと言えるかもしれない。
いつか社会に戻ってくるかもしれないというのでは区切りにならない。
これは人類学的研究を調べておく必要がある。

もちろん、死刑にすることで満足するかは疑問である。
しかし感情というのは、0か1かではない。
度合いの問題である。
死刑になれば少しは気がおさまるが、生きているのは許せない、
そう感じるとしても不思議ではない。

この著者はそれとは違う方向を選び取った。
加害者と対面し会話する道を選んだのである。
真に被害者が納得できる、被害者のかかわった司法を求めたのである。

これは最近の一つの潮流である、修復的司法であろう。
修復的司法とは、加害者と被害者が語り合い将来を考えることで、
新しい解決を目指すのである。

多くの裁判や紛争でも、
被害者と加害者が集まって顔を合わせることができれば、
その時点で問題はほとんど解決するという。

この問題については、
修復的司法の有効性をもう少し調べてみようと思う。
修復的司法には、1と3について大きく変える力があるかもしれない。

死刑については、冤罪の問題が挙がることがある。
冤罪で死刑になると取り返しがつかないというのだが、
これは少し疑問である。
懲役20年だとしても失われた時間は戻ってこない。
取り返しがつかないということでは同じである。
冤罪の問題は、死刑の有無ではなく司法や警察の問題と考える。

あと、この本の著者については、
ストックホルム・シンドロームとの比較も考えるべきかもしれない。

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