SSブログ

朝鮮通信使:江戸日本の誠信外交(岩波新書) [本(東洋史]

『朝鮮通信使:江戸日本の誠信外交』
仲尾宏(前近代日朝関係史)
岩波新書(2007)


朝鮮側も足利将軍を日本国王とした
徳川は国王でなく大君

義僧兵団を指揮した松雲大師。
1605年2月20日伏見城で家康と会見
通信使は500名前後
長剣100、鳥銃500を入手して持ち帰る
二度の日光参拝
天皇は通信使を見ることはなかった
雨森芳洲は対朝鮮外交の裏方
海路で大阪までそこから陸路に
釜山から乗ってきた朝鮮船。長さ40m
大井川以外は臨時の橋をかける。
大井川では台に乗せて。今切渡では船
画家一名随行する
長旅のせいか衣装も汚れ、
随員たちの中には女性をからかったり、
菓子の食べ残しを投げ捨てたりと、行儀が悪い者がいた

対馬は交易に関しては朝鮮に朝貢の立場をとって貿易を独占
実質二万石ながら十万石格の対馬

東莱城守将宋象賢の妾、日本から帰国

農民は税は重いが労役はない
女帝明正天皇、侍男が20余人がいて侍女と呼ぶ

朝鮮文人にも高く評価された新井白石の漢詩集『陶情詩集』
『白石詩草』は朝鮮で児童の教科書に用いられたことも
日本儒学に関心を寄せた丁茶山と李徳懋
貝原益軒は秀吉の朝鮮侵略を驕兵貪兵忿兵とし、
雨森芳洲は無名の師と批判した
釜山へ朝鮮語習得におもいた芳洲

☆☆☆☆☆
難易度3/5 推薦度3/5

当時の天皇って自由ないのな。
江戸時代はまあ日韓仲良くやってるよね。

・今日の一言(本文より)
江戸時代には天皇が禁裏を出て京都市中を出歩くことは幕府の出先機関であるる京都所司代によって厳しく禁止され、上皇の居所であるすぐ近くの仙洞御所におもむくことすらままならなかったからである。
에도시대(江戶時代)에는 천황이 궁궐을 나가서 교토(京都) 시중을 돌아다니는 것은 막부(幕府)의 파견 기관인 교토쇼시다이(京都所司代)에 의해 엄격히 금지되고, 상황(上皇)의 거처인 부근에 있는 센토고쇼(仙洞御所)에 가는 것조차 뜻대로 되지 않았기 때문이다.
在江户时代,天皇被幕府的派出机构的京都所司代严格进出,不能从皇宫出来到京都市内闲荡,就连附近的上皇住处的仙洞御所,都不能随意访问。
Since the Edo era the shogunate's military governor in Kyoto strictly forbid the Emperor from leaving the Imperial Palace to go around Kyoto city, it was difficult for the Emperor to even visit Sento Palace of the former emperor which was nearby.

タグ:仲尾宏
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。