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聖徳太子:斑鳩宮の争い(中公新書) [本(人物伝記]

sho_ikaruga.jpg 『聖徳太子:斑鳩宮の争い』
田村円澄(日本仏教史)
中公新書(1964)


厩戸王子が物部守屋討伐に
加わってというのはフィクション

538年、仏教公伝
日本の神は姿を持たなない
ところが、百済の使者がもたらした「他国神」は
「国神」と異なり、人間に似た相貌をもち、
微笑をさえ含んでいた。

天皇は代が変わるたびに宮の位置を変えた。
父と母が別居制で子は母と暮らすため宮が変わるとする本居宣長説。
死のケガレからの嫌悪とする久米邦武説

蘇我稲目。日本人初の仏教帰依者
欽明天皇の時代に任那四県の百済割譲に積極的だった大連大伴金村
山城大和摂津河内泉の諸氏。帰化系氏族が36%
三宝の棟梁、法興寺の恵慈と慧聡
飛鳥時代の仏教は氏族仏教

562年新羅による任那併合
600年大将軍境部臣副将軍穂積臣の万余が任那を回復
摂政の聖徳太子と大臣の蘇我馬子の仏法興隆、法興寺と法隆寺
蘇我氏の飛鳥難波百済、聖徳太子の斑鳩難波隋
『天皇記』と『国記』の編纂
『日本書紀』の骨格となった『帝記』と『旧辞』
鎌倉新仏教は聖徳太子信仰を拡大

☆☆☆☆☆
難易度3/5 推薦度3/5

政治面を中心にしたスタンダードな伝記。
渡来系の影響力大きいな。

・今日の一言(本文より)
豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ、料理の上手なお嬢さんの意)、すわなち後の推古天皇が、二十三歳で敏達天皇の后になったのは、聖徳太子の三歳の時であった。
도요미케카시키야히메(豊御食炊屋姫, 요리를 잘하는 아가씨의 뜻), 즉 뒤의 스이코천황(推古天皇)이 23 세로 빈타츠천황(敏達天皇)의 황후가 된 것은 성덕태자(聖徳太子)가 3 세일 때였다.
丰御食炊屋姬(toyomikekashikiyahime,做菜做得非常好的姑娘的意思),也就是后来的推古天皇,23岁的她成为敏达天皇的皇后的时候,圣德太子三岁。
Toyomikekashikiya-hime, which means a lady good at cooking, would become known as Empress Suiko. She married Emperor Bidatsu at the age of 23 when Prince Shotoku was three years old.

『聖徳太子の仏法』
佐藤正英(日本倫理思想史、倫理学)
講談社現代新書(2004)


太子は崇峻天皇の暗殺に荷担している
摩騰迦葉は、
天地および過去未来の出来事にかかわる知をめぐって、
二千人の道教の道士との争いに勝ち、明帝の信頼を得た。

たま神ともの神
釈迦仏は恐ろしい呪的な力をもち、
不可測のはたらきを秘めた<たま>神である。
欽明天皇

厩で生まれたキリストと聖徳太子。
キリストのルカ伝で厩は世俗の卑賤な場所の意味だが、
日本の厩は朝廷内の聖なる場所

釈迦仏を祭ることになった日本初の出家者善信尼。
廃仏にともない辺境に流され
法衣をはぎ取られ駅舎に監禁されむち打たれた

わが国の最初の仏法は巫女によるもの
推古天皇は容姿端麗
国司の制は701年の大宝令に始まる
勝鬘経を講説する。606年7月15日

北魏の宣武帝による維摩経の講説、
梁武帝の般若経と涅槃経の講説

太子による勝鬘経の講説を聴聞したひとびとは、
勝鬘妃を法会の施主である推古天皇と重ね合わせずにはいられなかったであろう。

☆☆☆☆☆
難易度3/5 推薦度3/5

聖徳太子をめぐる日本書紀の記述から当時の仏法を描く。

『信仰の王権 聖徳太子:太子像をよみとく』
武田佐知子(日本古代史、服装史)
中公新書(1993)


唐本御影は太子ではないは今枝愛真説
大日如来は頭に宝冠、首飾りがある
聖徳太子を救世観音の化身とする信仰
大江親通『七大寺日記』『七大寺巡礼私記』

平安末期の似せ絵の第一人者は藤原隆信。大和絵風の写実的肖像画

みずらが成年男子のヘアースタイルだった。
漆紗冠の制度の導入でみずらは童子のものとなった

東海の島国日本の、
光明皇后こそ生身の観音だという夢のお告げがあり、
王はその姿を写しとってくるようにと、
仏師を派遣した。

☆☆☆☆☆
難易度3/5 推薦度3/5

信仰の対象としての聖徳太子から日本人の描いた聖徳太子のイメージを考える

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