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念仏の道ヨチヨチと [本(仏教]

『念仏の道ヨチヨチと』
小島康誉(浄土宗僧侶)
東方出版(2006)


詩と写真集。
著者は宝石の鶴亀の元社長。

北海道美瑛の哲学の木は、ちょっと面白い。傾いていて考えるならぬ、考える木なのだ。

・今日の一言(本文より)
岩もあり 木の根もあれど さらさらと たださらさらと 水のながるる
바위도 있고 나무 뿌리도 있지만 졸졸 그냥 졸졸하고 물이 흐른다.
有岩,有根,但水潺潺地,只潺潺地流。
Though there are rocks and roots, water is murmuring. Just murmuring.

『お念仏のこころ』
梯実円(浄土真宗)
芦屋仏教会館(2005)


芦屋仏教会館からは浄土真宗の本がたくさん出ているらしい。信者向けの本。

南無阿弥陀仏の六字が阿弥陀さまの名前であると言っているのだが、まじめに考えるとはこれ単なる語用論的な勘違いと思う。南無は帰依するなんだし……。

お念仏と「お」をつけるのは自分の申す念仏でなくいただいたものだから。阿弥陀仏のものなので、丁寧に言う。これは信者特有かな。

他力の考えの説明として、「真実はつかむものではないのです。真実の方が私を包んで、はたらいてくださるのです。」はわかりすい。努力や才能と関係ない世界に救いの道がある。

『念仏の時空論考』
菅田祐凖(浄土宗)
思文閣出版(2003)


哲学的に考察した論考集。

『無量寿経』の前半は阿難に、後半は弥勒菩薩に告げる形式になっている。これはもともとは別の本だったのではないかと思わせる。

浄土は、個々の輝きと調和の世界観を示す。これは個性と協調という対立する要素を同時に実現できる理想世界を描いたものと考えるとよいのではないかと思う。

念仏の四つの作用。横超的溶解作用。本源的浄化作用。宇宙的融合作用。開眼的回生作用。横超とは、横さまに一飛びして迷いの世界を超える。一つ一つ階段を上るようなものではないのである。それまでの仏教の修行観が、努力と才能に依存したものであったに対して、異議を唱えたものと言えよう。社会の本質に努力と才能しか認めない人間には、本質的に弱者への哀れみや慈悲が決定的に欠如しており、真の平等がわかっていない人が多いようだ。

『念仏道』
藤井実応(浄土宗)
新光印刷(1969)


浄土宗の著者は、曹洞宗の道元を好きな人が多いようで、この著者も道元を多数引用している。

阿弥陀仏は無量光、無量寿、無量衆、無量相、無量幢。どこでも、いつでも、だれにも、どんな姿にも、どんなことにも無限ということ。限りなく絶対神に近い。

仏陀の出家は決して家族を捨てたものではなかった。釈尊の義母パジャパチー、妻ヤショーダラ、実子ラフラ、従弟ナンダ、甥のアーナンダも弟子となった。家族ごと出家したのである。よく考えると、出家の意味がそもそも間違っていたのではないかという印象も受ける。

法然の言葉には悠然とした寛容さが光るものが多い。信心をもよおす道は一つではない。というのは方法の多様性を容認している。念仏門に入ってからもわれ聖教を見ざる日なしと述懐したことは、法然が学問も重んじたを示す。学問は往生の道でないだけということなのだ。

『無量寿経』には、この光明に遇う者は、貪瞋痴のの三垢は消滅して、身も意も柔となり、歓喜踊躍して、善い心が生じる。とするが、身も意も柔となった姿こそ法然であると言えよう。

心をしずめ妄念をおこさずして念仏しようと思うのは生まれつきの目や鼻を取りはなちて念仏しようと思うようなもの。この言葉には人間というものの本質をよく捉えている。妄念といえど単なる除去すべき悪ではないのである。また、たたりなどない、という言葉にも現実を見る目がある。仏教はもともと哲学から生まれた宗教であり、迷信を批判するものなのである。

信じるとはまかせること。自ら突き進むというようなものではない。ただ聴くこと、よく見ること、そして待つこと。心して聞けば谷川の音にも、小川の小波にも、松吹く風にも、説法度生の声と聞こえる。蘇東坡は、山色渓声を如来のおすがたとして拝し如来の説法として聞いたという。それで、念仏の信ある人は、あまりくよくよしないのである。

『念仏と流罪:承元の法難と親鸞聖人』
梯實圓(浄土真宗)
本願寺出版社(2008)


承元の法難をテーマにしているので、親鸞聖人より法然上人の方が比率が高くなっている。

法然上人の『選択集』を簡単に言うと、「浄土三部経」には「選択本願念仏」が顕れているということを、善導大師の書を指南として展開したもの。なぜ選択かというと、法蔵菩薩が浄土を建てる前に他の無数の仏国を見学して回り、そこから自分の目指す世界を選び取ったからであり、そしてそこへ行く手段もさまざまあるなかで、念仏を選んだからである。

興味深い指摘は、法然上人に反対し興福寺奏状を起草した解脱房貞慶上人も、法然と同じ疑問を持っていた。真実の菩提心を発することができなかったと告白しているのである。

著者は浄土真宗なので、弁阿上人や良忠上人より親鸞聖人の方が法然上人に近いとしている。近年、親鸞の言葉はかなりの比率で、法然の言葉を正確に受け継いだものと判明しているのである。

承元の法難でなぜ親鸞まで流罪になったのか。親鸞はまだ若年で弟子の中でも相当に後輩であるのだ。親鸞は七箇条条文の署名で189人中87番目に記載されている。また後に罪に問われた人たちの順序は別に上位ではないらしい。親鸞は法然の弟子の中でも特別な存在だったようである。

この本は複数の著者によるものなので、意見が異なる部分もある。承元の法難について、梯實圓は不倫説を否定し、平松令三は支持している。というのも、このころの日本では数百年間も処罰としての死罪はほとんどなく、相当に重い罪でなければ死罪は有り得ないからである。

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