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法然と親鸞 [本(仏教]

honentoshinran.jpg 『法然と親鸞』
増谷文雄(宗教学)
在家仏教協会(1959)


叱咤する法然。
念仏が一番であること。念仏は平等であること
円を捨てて偏を好む
客観的最勝から主観的選択という態度をもって仏教にたちむかう
罪の自覚と宗教の結びつき

法然ほどの人物がなぜ自らを罪悪生死の凡夫と語らねばならないのか

法然の一人称は複数で親鸞は単数

浄土真宗とは法然の唱道する浄土宗こそが
真の大乗仏教の極致であるという感慨を込めたもの
歎異抄が批判する相手は
自己の門下ではなく法然門下の全体に向かったもの
先師の口伝。歎異抄の序文の先師は法然である。
有縁の知識が親鸞

絶対に法然に憑依して
同時に法然によらない独特の見解をもつなどあり得ない
法然の門下はみな一字一句も相違なく伝えようとした。
聖覚も聖光も法然上人の言わなかったことは言わないと誓った

義がないのが義。理屈がないのが理屈である
義なきを義とし、様なきを様とす。浅きは深きなり。

学生骨になりて、念仏やうしなはんずらむ。
自分自身に言い聞かせたのかもしれぬ
法然は学なき法性空阿をうらやむ

法然の念仏為先と親鸞の信心為本は対立するものではない

日本仏教を原始仏教と違う間違った仏教とするのは発展を認めない考えである
禅は中国仏教の典型
仏教伝来700年で法然親鸞が登場しさらに700年が現代
選択の法然、己証の親鸞

☆☆☆☆☆
非常にわかりやすく、面白い。

法然は実際の行為を述べ、親鸞はその行為のありかたを述べた。
法然の言葉は広く一般人に向けたものが多く、
親鸞の言葉は修行者に向けられたものが多い。
そのため言葉が違うのであって、
内容は全く同じと考えてよいと思う。
私は法然と親鸞に対立は皆無と判断する。

二人の違いは、
理論者である法然と実践者である親鸞、
治癒者である法然と哲学者である親鸞、
指導者である法然と研究者である親鸞
という立場の違いに起因した表現の差異なのである。

・今日の一言(本文より)
義なきを義とし、様なきを様とす。浅きは深きなり。
把没有道理作为道理,没有样子作为样子。浅即深也。
That there is no reason is reason. Things with no shape are shape. Shallow is deep.
의리가 없는 것을 의리라고 하고 모양이 없는 것을 모양이라고 한다. 얕음은 깊음이다.

タグ:増谷文雄
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