SSブログ

南無阿弥陀仏の論理 [本(仏教]

naminabudabutsunogenli.jpg 『南無阿弥陀仏の論理』
梶村昇(日本仏教思想史)
毎日新聞社(1985)


太子=聖徳太子
大師=弘法大師
太閤=豊臣秀吉
元祖=法然上人

執着せるものが執着なきものに目覚めることが仏教

阿弥陀仏は48願、釈尊は500願、薬師如来は12願

法然33歳で源信の『往生要集』との邂逅

念仏は本来仏を憶念すること
観仏が称名より優れているという叡空の主張に断固反対した法然

大乗の経典はすべて釈尊死後五百年以後に成立したもの
『無量寿経』は北西インドで西暦百年頃成立
『観無量寿経』は四、五世紀に中央アジアか中国で成立
『法華経』は西暦百年頃
『華厳経』は二世紀以前
『般若経』は紀元前後
『唯摩経』は百五十年頃
『勝鬘経』は二百年以前

人間を理性のあるものと見るか至らぬもの罪深きものと見るかの対立の歴史

ルター:
人間は馬のようなもので、いつも騎手に御せられている。
その騎手とは、神であるか、そうでなければ悪魔である。

往生極楽とは成仏に至る前段階
浄土とは仏や菩薩の住む国、
極楽はその一つで阿弥陀仏が住む

念仏が称名に変化したのは道綽、善導、曇鸞の恣意的態度
道元の心身脱落は心塵脱落を誤って受け取った結果、有時、悉有仏性も読み換え

恵信尼の夢では法然が勢至菩薩、親鸞が観音菩薩

歎異抄は念仏の論理ではなく念仏に至るための論理

親鸞も聖光も念仏への信の困難さを述べる、
ただ己の至らなさに対する凝視と法然に対する絶対的信のみ

アミダ仏はわれわれに自然ということのあり様を知らせようとする手だてである。

親鸞の言葉の三つの要:
信機=罪深い凡夫として自分を見つめる、
信法=アミダ仏の誓願を信じ念仏を申す、
自然法爾=計らいを捨てて自然に従って生きる

・今日の一言(本文より)
ナムアミダ仏=人智をもって計量するのことのできない人生に、目覚めたる人に帰依いたします。
나무아비타불, 인지로써 헤아릴 수 없는 인생에 깨달은 사람을 따라 귀의하겠습니다.
南无阿弥陀佛是指,不能以人的智慧来计量的人生里,归依领悟真理的人。
Namu Amida-butsu, in this life that cannot be understood by human's knowledge, I will embrace the awakened person.

タグ:梶村昇
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。