SSブログ

三略(中公文庫) [本(東洋史]

『三略』
真鍋呉夫(小説家、俳人)
中公文庫(2004)


漢代に書かれた政治兵法書。
小さな本・光武帝ファン必読!

『三略』は、
太公望が書いたものということになっている。
しかし三皇、五帝、王者、覇者の比較や、
句践のエピソードがあることから、
後の人の仮託であるとわかる。
あるいはまた、
張良が太公望の化身である
黄石公から受け取った兵法書ともされる。
しかしこれも韓信の死のときの言葉"高鳥死して……"が
『三略』にあることから、事実ではない。
さらに前漢の銀雀山漢墓からは『六韜』は出土したが、
『三略』は出土しなかった。
『漢書』にある藝文志には、前漢末のあらゆる書籍が記録されるが、
そこにも『三略』は存在しないのだ。

では、『三略』が最も早く記録されるのはいつか?
それは後漢の初期である。光武帝が詔で引用しているのである。
『三略』は『黄石公三略』とも言われる。
光武帝はその詔で『黄石公記』という書の文章を引用している。
そしてその文章は、現行の『三略』とほぼ一致しているのだ。

そして何より驚くべきことは、『三略』の内容のすべてが、
光武帝のエピソードで解説することができるということだ。
『三略』の内容は、光武帝の生涯に一致するのである。

光武帝は『三略』を学んで真の帝王となったのか?
あるいは『三略』の著者は、光武帝劉秀その人ではないのか?
架空の名義に韜晦して志を述べるのはよくあることだ。
若い頃、郷里で韜晦してその能力を隠していた光武帝、
劉秀ならこうしたことをしないとは言えない。
光武帝が晩年にその政治と用兵の哲学を述べれば、
『三略』のようなものになるだろう。

『三略』の言葉を見てみよう。

自分と人々の好むものを一致させれば成功するという。
光武帝は、平和を望む民衆に合わせ統一後は戦争を止めたのである。
民衆が好むものを自分の好むものとしたのである。

柔、剛、弱、強の性質を知って使い分けるという。
統一後、柔の道をもって治めようといったのは光武帝である。
柔よく剛を制すといって、匈奴の戦わなかったが、
南越には馬援を派遣して平定した。ここで剛を用いたのである。

人民の要求に対応し望むものを与えるという。
常に人の意志を尊重するのは光武帝らしい発想である。
姉の結婚相手は、大臣から選ばせたし、
家臣の領土は当人にリクエストさせた。
民間に人を派遣してその声を回収させたこともある。
光武帝は人が何を望むかに敏感であった。

多すぎるものを減らし貧しいものを豊かにし、強いものを抑えるという。
貧しい郡には循吏を、豊かな郡には酷吏を配置して
貧富差を減らしたのが光武帝である。
また最も低いものである奴婢の人権を守り、
法の下の平等を宣言したのも光武帝である。

強い敵は避け調子づくものには肩すかしする、
あるいは士気が衰えるのを待つという。
光武帝の軽騎による迅速な行動で有利な陣形を作り、
士気の変化を見て戦う用兵に一致している。

暴虐は自滅に任せるという。
これは燕王彭寵を放置し、奴に殺されたケースだろう。

結束にはくさびを打ち込むという。
隗囂戦では、名将牛邯を引き抜くことが勝負を決めた。

功績の表彰は間をおかず実行する。
良いことをした家臣はその場ですぐに表彰するのだ。
光武帝が夜中に帰り、城門の閉め出しをくらったとき、
次の日にすぐ、門番は取り立てられたのである。

将軍は兵士と同じものを食べすべてを共にする。
井戸を掘っても水が出るまで喉が渇いたと言わない、
全軍が天幕を張り終えるまで疲れたといってはならない、
すべての待遇が兵士と同じでなければならないという。
光武帝は皇帝であっても、
将軍として遠征すれば兵士と同じ待遇に甘んじていた。

人民の割に役人が多すぎると国が滅ぶという。
光武帝は役人を四分の一に減らしたのである。

主君が将軍の判断や決定に干渉すると勝利できないという。
光武帝の将軍たちは、進軍に制限がないだけでなく、
占領地の民政まで権限が与えられていた。

智者、勇者、貪者、愚者を使い分けるという。
貪者や愚者まで使うところが面白い。
貪者は馬武などが相当するだろう。

天下に泰平をもたらすには道徳が不可欠という。
光武帝は太学を復活させ、学校を全国に立て、
兵士には『孝経』を学ばせたのだ。

功臣は粛清せずに、権力を取り上げる方法。
手厚く待遇し功績を顕彰し豊かな領地を与える。
凱旋した軍隊の武装解除のときこそ真の危機という。
これはまさに光武帝のことではないか。
功臣を粛清しなかった帝王は、
光武帝劉秀、唐太宗李世民、宋太祖趙匡胤しかいない。
光武帝以前には功臣を殺さない君主はほとんどおらず、
これはまさに光武帝しか書けないことである。

君主は骨身を惜しまず人民に奉仕してこそ天下を泰平にできるという。
ただしあくまでも礼と楽に従って尽くすのだという。
『三略』は道家的兵法とされるが、道家の無為の治とは異なっている。
力を尽くして働きながら、楽に従うとはまさに光武帝以外にないものだ。
光武帝は、働き過ぎですから休んでは? と言われたとき、
私はこれを"楽"しんでいると答えたのだ。

遠きを捨てて身近なことに力を注ぐと目的を達成できるという。
外国を攻めることより国内を安定させれば
外国もまたおのずから帰服するのだという。
これは明らかに、西域など外国を放置して遠征をせず、
内政に集中した光武帝のことを直接に指している。
そして実際、南匈奴を降伏させたのだ。

賢者を招くときは相手を観察して相応しい招き方をするという。
光武帝は、馬援が来訪したとき、公孫述と正反対に簡易に応対した。
相手の意志に合わせたのである。

さらに、礼義仁徳道の解説がありわかりやすい。

・朝起きて夜寝るのは礼
・賊を討って懲らしめるのは義
・他人への思いやりは仁
・自分の望むことを他人に施すのは徳
・公平に他人を尊重するのは道

功臣を粛清しない方法、外国より内政、人の望みをかなえる、
貧富の公平化、君主自ら力を尽くして働くなどは、
光武帝にこそ相応しい発想である。
もし誰か別の人が書いたのなら、
どうして光武帝に仮託しなかったのか不思議なぐらいである。

・今日の一言
『三略』を読むと光武帝の思想を知ることができる。
If you read "three strategy", you can understand the philosophy of Emperer Guang-wu.
삼략(三略)을 읽으면 광무제의 사상을 알 수 있다.
读《三略》可以了解光武帝的思想。

タグ:三略
nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 0

コメント 1

武侯仁従

今でこそ、光武帝は道家臭ぷんぷんの人と言われますが、古代・中世は「儒教の人」だったから、張良に仮託されたと。

Kayさんの解説だと、まさに光武帝の事跡と重なることが多いです。まあオリジナルの三略もどきがあったかもしれないでしょうが、まさに「黄石公三略」足りえたのは光武帝劉秀の人の手によるところ大では。預言書で「二十八宿将」決めた文叔さんなら加筆・構成したのでは?で生きた三略になったと。

再見!
by 武侯仁従 (2007-04-13 09:20) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。