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論より詭弁-反論理的思考のすすめ(光文社新書) [本(論理思考]

『論より詭弁/香西秀信/光文社新書/2007』
著者:修辞学、国語科教育学、"生涯一ソフィスト"
評価:論理思考とディベートの問題点を指摘する・面白い!

議論が対等な人間関係で起こることはない。
ディベートで設定される議論は、ディベート大会だけである。

言葉で表現するとない順序を作ることになる。
表現したい三次元あるいは四次元の内容も、言葉で表現すると、
時間的な一次元の表現になってしまうのだ。
必然的にできる順序により、事実そのままは表現できなくなる。
言葉の意味は生み出す運動感覚なので、
一番最後の言葉が力を持つため、最後の言葉が強調されるのである。

事実を選択することで意見としての性格を持つ。
議員の海外視察か見物かで既に意見になる。

否定表現は意見である。
"ない"は虚偽ではないが事実と言えない。
事実そのままに言うなら、何も言わないのが事実なのだ。
"机の上に本がない"といえば、ないことの裏に主張があるのである。

根拠は多ければよいとは限らない。
一人の人間の思想からは出ない根拠を並べると心理的に不自然になる。
ボランティアを相手に勧めるとする。
ボランティアは現代人の義務だ、また進学就職に有利だよ、
というと、論理的には根拠を増すが、
義務と利益を主張するという、
という一人の人間の思想として不自然なものになり、
相手の信頼を失うのである。

煙草が体に悪いから止めろと主張するヘビースモーカーがいれば、
まずお前が止めろと言いたくなるが、論理的には関係がない。
しかし、これは話のすりかえでなく、
より重要なことへ議論を移行させたというべきとする。

レトリックの本で有名な言葉、
君はもう奥さんを殴ってはいないのか?
では、YesでもNoでも、殴ったことがあることになってしまう。

retortで立証責任を返すべきである。
「殴ったことなど一度もねえや」と言い返すのだ。
相手に、殴ったことを立証する責任を返すのである。

これらは、立証責任を本来負うべき側に与える適切な方法である。

人を見て議論するのは悪いとは限らない。
同じ言葉でも誰が語るかで意味が違うのである。
言葉にはすべて文脈というものがあるのだ。

私が思うに、本を読むときも、その著者の専攻や、
その著者の知識の頂点を捉えるべきだし、
何かを学ぶときも、
そのテーマを知識の頂点とする著者の本を調べるべきである。

著者が高齢ならば、その専攻が知識の頂点である。
著者が若ければ、今まで出した本のリストを確認し、
最もたくさん書いたテーマが知識の頂点である。

和田秀樹なら受験勉強研究であって精神医学ではない。
野口悠紀雄なら成人教育であって経済学ではない。
西尾幹二ならドイツ文学であって外交問題ではない。

いろいろなテーマの本を書く著者の本は、
それぞれのテーマの専門家と対照して読まない限り、
百害有って一利無しである。

香西秀信は、真に議論の専門家であり、
面白いものが多いのでお勧めである。
・香西秀信の本 を読むと、
実在の議論の仕組みを理解して、主張を仕方を学ぶことができる。

この本で挙げられた事実と価値が区別できないことは、
アフォーダンスの議論に結びつくものである。
・河野哲也の本 を読むと、
言葉を意味を知り、我々の認識世界の構造を学ぶことができる。

また論理的に正しくない循環する議論の例もあるが、
これは、科学哲学と関係する。
議論の循環には悪いものと良いものがあり、
科学思考は良い循環構造を持つのである。
・戸田山和久の本 を読むと、
科学的な真理を探究する思考法を学ぶことができる。

・今日の一言
否定表現は意見である。
Negative expression is opinion.
부정 표현은 의견이다.
否定表现是意见。

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