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中国漢代人物伝 [本(東洋史]

『中国漢代人物伝/濱田英作/成文堂/2002』
著者:東西交渉史、前漢史
評価:前漢の社会をリアルに知る良書

前漢は法が人為で運用される恐怖政治に満ち満ちた恐るべき国家。
命の値段が安く流血が日常茶飯事だ。
ゲシュタポのような酷吏が横行する抑圧体制である。
首都にいた若者たち、今でいう暴走族チームは一網打尽にされ、
即決裁判でまとめて生き埋めになったという。
"鮮衣凶服"を"特攻服"と訳しているのに笑ってしまった。

また、逆らうものは長城警備の強制労働に送られた。
居延漢簡から昌邑国の戸籍の警備兵の名簿が多数出ているのだ。
昌邑王廃立のとばっちりが一般兵士にまで及んでいるのだ。

前漢と現代で共通する中国人気質。
それは"自分の言い分を通す"ということ。
自分の言い分を通すために死ぬ前漢中国官僚たち。
忠義などと虚飾するが、
何のことはない、ただ自分を曲げないというだけなのだ。
今も昔も人治主義無法国家では面子をかけて激しく生きるしかないのだ。

漢代の中国人は現代中国人より、日本人の方が違和感がない。
床に敷物をひいて正座し、膳に並んだ漆塗りの食器で飲食する。
調理の実演や演芸つきの宴会を楽しむ。
これはまるで日本の温泉旅館のようなものという。
漢代は日本の江戸時代に似ているのだ。

江戸時代の侍は刀を差していたが、
漢代の人たちは、みな日常的に帯剣して歩いていた。
その剣にまつわる技術が撃剣である。
さて撃剣とは何か。
剣術説と投剣説が比較検討されているのが面白い。

投剣説を唱えているとされるのが顔師古である。
しかし顔師古の言葉は本当に投剣だろうか?
投剣なら投げる意味の字を使うはずだ。

顔師古の言葉は、
撃剣とは剣を以て遙かに撃ちこれにあてるもので、
斬ったり刺したりするものではない
であり、投げるとはいっていない。

またなぜ刺剣でも斬剣でもなく撃剣なのか?
刺したり斬ったりせず中てるだけだからだだろう。

思うにこれは競技剣術と理解すれば納得できる。
問題は"遙かに撃つ"という部分だが、
これは現代のスポーツ競技、フェンシングや剣道を考えればわかる。
みなヒット・アンド・アウェイの一撃離脱式の動きになり、
実戦の深く斬り込む剣法と全く違う動きなのがわかるはずだ。
相手の身体の一部に剣先を触れれば点数になるからだ。
遠くから相手の身体の一部を狙って撃ち、さっと離れるのだ。
だからこそ顔師古は、
遙かに撃ちこれにあてるもので斬ったり刺したりするものではない
というのではないか。

また撃剣は役人の必要な技術として少年時代に学ぶようだ。
当時の役人の必須として、文が文法、武が撃剣であるという。
剣は君子の武備といい、君子たるものが学ぶべきものが撃剣である。

すなわち漢代には撃剣道場がたくさんあったということだ。
おそらく審判がいて木剣を使って点数を競う競技が撃剣だろう。

帯剣した剣士が闊歩する漢代。
このあたりも江戸時代に類似しているのが面白い。

『知られざる素顔の中国皇帝/小前亮/ベスト新書/2006』
著者:中央アジア、イスラーム史
評価:十八史略抜粋感想文

隋文帝は生粋の軍人という。
軍功なんて一つもないと思うのでちょっと違和感があるな。

朱全忠は追従とへつらいを嫌い実を好んだ。
裏切りの塊みたいな朱全忠だけに皮肉だな。

讖緯説を信じた光武帝と、瑞祥を嫌がって報告させなかった唐太宗。
光武帝も瑞祥を嫌がって報告させなかったのに、
これはミスリーディングでしょ?

女性も兵士とし科挙の資格も与えた太平天国。
後の共産主義との共通性は面白い感じ。

前漢武帝は類例もない暴政の悪夢の時代だという。
その前の文帝と景帝が名君で、その財産を食いつぶしただけなのだ。

淝水の戦いは後退して敵を誘い反転包囲する作戦だったという。
それは初耳だけど、誰の説だろうか?

毎年モンゴル族を訪ねて天幕に寝泊まりした康煕帝。
人心掌握の方法を良く心得ている。

少なくとも光武帝に関しては、独自に調べている感じがする。
この著者は、李世民、趙匡胤と書いているので、
次は劉秀を狙っているように思えるな。

『中国古代の城郭都市と地域支配/五井直弘/名著刊行会/2002』
著者:東洋史学
評価:資料・古代の都市がよくわかる

洛陽も長安も
城内に住むのは高官と外戚のみ、一般市民は城外にいた。
太学も洛河をへだてた南岸にあった。

呂不韋は洛陽10万戸に封じられたという。
秦代の洛陽で既に10万戸あったわけだ。

洛陽の城は小さいけれども、
洛陽の人口はほとんど城外のようである。

建武24年大司空張純に陽渠を穿った。
前の大司空の王梁は掘り下げ方が足りなかったらしい。

『司馬遷論攷/新田幸治/雄山閣出版/2000』
著者:中国文学
評価:史記の解説、注釈書

斉の首都臨淄は、
桑、麻、布帛や魚塩が豊富で、長安より豊からしい。


『六朝貴族制社会の研究/川勝義雄/岩波書店/1982』
著者:東洋史
評価:後漢から六朝の豪族と貴族の構造を知る

後漢の清義では、宗族、地域、身分階級を越えた与論だった。
単微出身の陳寔、貧しい牛医の子の黄憲、逃亡者魏朗などがいた。
この時代、豪族はまだ貴族にはなっていなかった。

董仲舒の思想:地上の国家が天界の秩序の裏付けを持つ。
天には日月北斗五星二十八宿があって支えるとする。
光武帝の二十八将が二十八宿に対応するというのも、
儒教的な思想により、光武帝が選択した可能性が高い。

・今日の一言
中国の漢代は日本の江戸時代に似ている。
The Han dynasty in China is similar to Edo period in Japan.
중국 한대는 일본 에도시대와 비슷하다.
中国汉朝的习俗很像日本江户时代。

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