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親鸞:私の宗教観 [本(仏教]

『親鸞:私の宗教観』
亀井勝一郎(文芸評論家)
角川新書(1954)


右手に聖典をとり、左手に酒盃を持ち、正と邪の間に戦慄せよ。カイヤム
Clasp the Koran with one hand, clutch the cup with the other, and shiver between the lawful and the unlawful.

しかもなお神は在ると、
ためらいもなく断言したいのである。

救世菩薩として環相の相に遊行せる太子は、
往相の相に苦行する親鸞に、
夢告によって廻向したのである。

歴史とは耳の底に留る所を語り継ぎ言い継ぐことだ。
弥陀は本願、釈尊は説教、善導の御釈、法然のおほせ、親鸞がもうすむね

宗教が戦争という犯罪のための促進剤と鎮静剤の役割に

発心の動機。生命の危機感、病者の自覚、罪の意識

慈悲はあはれみでなく、赦す赦さぬの問題でなく、
人間の実存に対する佛性の永続的凝視力である。

☆☆☆☆☆
一人の信者としての拡大的解釈の本。

・今日の一言(本文より、マルクス)
民衆の幻想的幸福としての宗教を止揚することは彼らの真実の幸福を要求することである。
The abolition of religion as the illusory happiness of the people is the demand for their real happiness.
取消人们作为幻觉幸福的宗教的前提是要人们有真正的幸福。
환상적 행복으로서의 종교를 철폐하는 것은 진정한 행복을 요구하는 것이다.

『親鸞の生と死:デス・エデュケーションの立場から』
田代俊孝(ビハーラ研究会代表)
法蔵館(2004)


仏教は時機相応の教え。
時代社会とともに、その時その時の状況に、
また一人一人の人間に応じた教え

選択本願の念仏にはあえて来迎を要せず。法然

法然と聖覚と親鸞の法友としての信頼の深さ

『観無量寿経』阿弥陀仏は
此を去りたもうこと遠からず

生のみがわれらにあらず。死もまたなれらなり。清沢満之

『親鸞入門:真実の生を求めて』
早島鏡正(印度哲学梵文字)
講談社現代新書(1971)


親鸞の名前は日本高僧伝にない

恵信尼の夢:
法然上人は勢至菩薩、
親鸞聖人は観音菩薩
聖徳太子は観音の化身と広く信じられていた

他力の信心は仏から回向されるものだから
源空の信心も善信房の信心も同じ

十九願は修行による往生
二十願は自力念仏による往生
十八願は他力念仏による往生

経論の読み方を変えて思想の本質を把握しようとする方法。転声釈

法然は体失も不体失も許されると判定

親鸞の十八願の読み方はサンスクリット本とかみ合っている

☆☆☆☆☆
親鸞の入門書としてよくまとまっている。

『親鸞の仏教史観』
曽我量深(浄土真宗僧侶)
東本願寺(1983)


浄土真宗というのは
親鸞の体験せられた新しい仏教史観であった

信順を因とし疑謗を縁とする

最近の研究は
釈尊が何を言ったかばかり問題となって
何を体験したかを問題としていない

親鸞は八願しか引用していない

☆☆☆☆☆
まとめ熊谷直実福井市善照寺住職
とあってびっくり。
熊谷直実さんで現代にもいるんだ。

『世界の中の親鸞』
上田義文(仏教学者)
春秋社(1974)


心の中にひそむ
悪そのものである影を否定しないで、
素直に認めることで、
小さな自我が滅び真実の自己が現れる

法の立場:本願と名号、
機の立場:信心と念仏

弥勒信仰とキリスト教終末論のキリストの再臨
南無阿弥陀仏はまず耳に聞こえてくるものだ
カソリックで遠藤周作の沈黙は禁書になっていた
キリスト教の三位一体と仏教の三身論
仏教には意志に相当する言葉がない
旧約の律法、新約の愛
仏教には人格神を考えるという考え方がない

キルケゴールは心理学的なスパイの立場を標榜した

菩提樹下の釈尊の悟りが
イエスではヨルダン川のバプテスマに相当する

パウロと親鸞の同質性。
親鸞の如来よりたまわりたる信心とパウロのハギオン・プネウマ

絶対他力が瞑想の本質
他力の原語はparatantra。
旧訳は他力、新訳は依他もしくは縁起

☆☆☆☆☆
浄土真宗とキリスト教の比較論

『親鸞:救済原理としての絶対他力』
釈徹宗(宗教学、比較宗教学、人間学)
佼成出版社(2010)


一国一仏:
ひとつの国にひとりの仏陀がいる
母化した釈迦、阿弥陀仏
西方とは帰るところの象徴

すべての人が救われて仏と成らねば
法蔵菩薩は阿弥陀仏に成らないのであるから、
私が仏に成らなければ阿弥陀仏は成立しないのだ。

浄土仏教とは?
阿弥陀仏の願い誓いを信じて念仏すれば浄土へ往生できる。
往生すれば、即、仏と成る。
そして、衆生救済のために仏として還って来る。

大乗仏教の成立当初から
大乗仏教は仏教なのかという議論があった
大乗仏教は、社会と関わり他者と関わるがゆえに、
常に上書きされ続ける仏教である。

出家する必要などなかった。
日々の生活自体が仏道だった。
鈴木正三

やがて、みんな、病人になる。
我が身を他者に預けるというとは出家だ。
つまり、誰もが出家するのだ。
白隠

夢。自己の内面から沸き起こる魂の叫び

第二十願。要門。阿弥陀経。不定聚
第十九願。真門。観無量寿経。邪定聚
第十八願。弘願。無量寿経。正定聚

救いは信仰の決定的飛躍によってのみ得られる。キルケゴール
法然の二種の深信は前後関係。悪の自覚と阿弥陀仏への信
親鸞の二種の深信は表裏一体
親鸞も一貫して念仏往生で信心往生ではない

賀古の教信沙弥を理想とした親鸞と一遍

法然の正統性を主張するためにかかれた
『教行証』=『顕浄土真実教行証文類』

親鸞の同行には被差別者たちが多くいた
機=対象=intention

親鸞は自分の称名を仏の呼び声であるとした

☆☆☆☆☆
親鸞の思想の中心を捉えていて面白い一冊。

『親鸞・自然の浄土』
遠山諦虔(哲学、父が浄土真宗僧侶)
法蔵館(1990)


自然の立場をとる限り、
神の意志による万物創造という考え方は、
まず同意できないものの一つである。

浄土教の浄土は、
むしろ己心に浄土を求めて絶望した者が、
己心の外に求める浄土である。
心の中にあるのではない

浄土の鳥は阿弥陀仏の変化の所作

真空妙有。
無相の真如法性が有相に転じ、かたちを表す大乗一般の根本原理

芸術も一時的な解脱を与える試み。ショーペンハウアー

浄土の証は未だ来たらずして、すでに来ている
浄土のイマージュ性

☆☆☆☆☆
自然と浄土についての哲学書。
浄土ではすべてが自然、自ら然る。
すなわち他力ではない。
娑婆では他力以外ないが、
浄土ではすべてが自力たる世界なのである。

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