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思想家としての光武帝 [光武帝劉秀(Emperor Guangwu)]

guangwudi.jpg光武帝(劉秀、字は文叔。後漢王朝の初代皇帝。紀元前5年1月15日生まれ、西暦57年3月29日没。皇帝在位は西暦25-57)

天地之性人為貴
(この天の地の性質として、人であるから貴いのである。)
劉秀は現代思想につながる発想を持っていた。人の貴さを、人であることそれだけに求めた言葉である。劉秀は天下を統一すると、庶民と奴婢との法律の差別を取り除いていった。現代の基本的人権への第一歩である。

貧不能自存者粟,人五斛、如律
(貧しくて自活できない者には一人当たり150kgの穀物を法律によって支給する)
世界初の生活保障制度である。自力で生活不能な老人や貧民に一人当たり150kgの穀物を支給し、それを「如律」すなわち制度化したのである。生存権の始まりである。

顧重天下,以元元為首
(政治は何度も考えに考えて行い、名も無き庶民を最優先とせよ)
これは劉秀が次の皇帝たる劉陽に残した言葉である。庶民を最優先とする、すわなち、人民のための政治こそが劉秀の統治の根本思想であった。

地恒動而不止
(大地はいつも動いて止まることがない)
劉秀の科学知識を述べよう。劉秀は既に地動説も知っていた。劉秀は緯書の校訂も行っていたがその中の『尚書緯』の考霊曜には、

地恒動而不止,人不知,譬如人在大舟中,閉牖而坐,舟行不覺也。
(大地はいつも動いて止まることがないのであるが、人がそれを知らないのは、たとえて言えば大きな船の中にいて、窓を閉め切って座っているようなもので、船が動いていても気づかないからである。)

とあるのである。

またこの予言書では大地は三万里動くとしているのだが、一里は415.8mであるから三万里とは12,474km、この数値は地球の直径12,742kmとほぼ一致していることがわかる。これは太陽との角度の変化から導き出した数値かもしれない。

得隴望蜀
(隴を得て蜀を望む)
有名な成語であるが、原意を少し誤解している辞書まであるようだ。この文面は全文を読んだ方が正しく理解できる。

兩城若下,便可將兵南擊蜀虜。人苦不知足,既平隴,復望蜀。每一發兵,頭鬢為白
(二つの城を降伏させたら、兵を率いて南に蜀の賊を撃つことができる。人は満ち足りることを知らずに苦しむものだな。今、隴を平定すると、次に蜀を欲しがるとは。戦争を始めるたびに、髪やひげが白くなるよ)

目前の敵の打倒に目星がついたとたん、次の敵について考えている自分に驚いて言った言葉である。興味深いのは、人苦不知足(人は満ち足りることを知らずに苦しむ)の部分で、これはまさに欲望こそが苦を生むとする仏教思想の中核であり、劉秀は自然にその境地に到っていたことがわかる。

楽此不疲
(楽しんでやっているから疲れたりしない)
劉秀は晩年に到っても仕事熱心であるため、心配した人に対して答えたものである。この原理はフロー現象とも言われ、達人の域に達すると没頭して楽しむようになることと言われる。これは仏教の悟りの境地、涅槃がこのようなものであるとされる。劉秀は皇帝として既に涅槃に到達していたのである。

楽人者其楽長,楽身者不久而亡
(人とともに楽しめばその楽しみは長く続くが、自分一人で楽しむのは長く続かず無くなるものだ。)
これは馬武、臧宮らの上書に対する返答の一部であり、『黄石公記』からの引用である。ただし現行の『三略』とは少し異なっているので注意。

劉秀は土地調査で人が多く死んだことを嘆き、匈奴国境から避難させた住民が戻ったとき、彼らの郷里が廃墟になっていたことを悲しんだ。人々の心に寄り添って生きたのが劉秀であった。共に楽しみ、共に悲しむ。これはまさに仏教で言う菩薩の思想そのものである。劉秀は天性菩薩の心を持っていたことがわかる。

朕無益百姓
(私は人々の役に立てなかった)
これは劉秀の遺詔の一節である。劉秀は天下を統一し戦乱を終わらせただけでなく、大胆な政治改革を進めた。奴隷解放、人権の平等化教育推進、農業振興、徴兵制の廃止、塩鉄の専売制の廃止、生活保障制度制定、国家公務員を1/10以下にして地方公務員へと転換させ、刑罰の再審制度を作り全国土地調査を定め徴税を平等化した。劉秀よりも民衆のために役に立った人間は地上に存在しないと言ってよいレベルである。

ところが劉秀はそれを自分の力だとは考えなかった。私は人々の役に立てなかった、すわなち、これは私の力によるものではなかったと考えたのである。人間には我というものはなく、すべては縁により他者との関係の中で生じる。仏教の無我、縁起の思想である。劉秀はその生涯において無我、縁起の思想を体得したのである。

しかし劉秀は仏教を学んだという記録はない。仏教の伝来は、劉秀の息子、明帝劉陽が夢で金人=仏陀を見て、西域から僧侶を呼び寄せ、仏像、経典などを持ち帰らせたことに始まるとされる。明帝の弟である劉英が仏教の祭祀を行っていたことから、劉英は仏像を持っていたと考えられる。劉秀は既に仏教思想に到達していたが、仏教は劉秀に遅れて伝来したことがわかる。

救世主を知らせるベツレヘムの星とともにこの地上に生まれ、天性の菩薩の心を持ち、苦の原理を知り、無我と縁起の法則を身につけ、涅槃に到達した劉秀は、後の道教の祭祀となる大元宮を行って皇帝となると人権天賦説を唱えて奴隷を解放し、法のもとの万人の平等と生存を保障し、人民のための政治を行い、また地球が世界の中心でないことや、その大きさまで正確に知っていたのであった。

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