法蔵菩薩とは何者か?タイムトラベラーとしての阿弥陀如来 [考えたこと]
縁起(pratiitya-samutpaada)
物事すべてに因(原因 hetu)と縁(条件 pratyaya)がある。これが仏陀の教えの中核たる縁起である。これだけだと簡単に思える。ところが仏陀は「私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである」と言い、誰にも理解できないだろうから説くのは止めようと考えていた。いったい何が難しいのか。それは縁起の論理の厳密性と絶対性のためであった。
縁起が述べることは、無から有が生じることはなく、有が無になることもないし、偶然や奇跡で何かが生じることもなく、ただ法(dhárma)に基づいて変転していくのみという、徹底した決定論であるが、にもかかわらず運命論ではない。なぜなら我々は世界の一部、すなわち縁起の一部を構成する存在だからである。
悟り(bodhi)
縁起の教えは、世界の変化には定まったことと、定まっていないことがあることを教えてくれる。そして、この過去から未来へと決定していることと、決定していないことを切り分けることが悟りである。この世界には変えられることと、変えられないことがあることを知ること、これが悟りへの第一歩である。変えられないことを諦め、変えられることに尽くせば、そこに悩みはなく、苦(duskha)から解き放たれることはわかるであろう。
実際には、決定していることを変えようとしてもがき苦しみ、決定していないことなのに努力せずに放縦に生きてしまうのが人間である。事象の決定と非決定の区別を惑わせるのが煩悩(kleśa)≒感情であり、分別(vi-kalpa)=先入観である。仏陀はその煩悩や分別を滅却するためのトレーニングを考えて布教したのである。
この問題はキリスト教でも気づいていて、いわゆるニーバーの祈り(変えられるものを変える勇気、変えられないものを受け入れる冷静、それらを区別する知恵を求める祈り)は仏陀の悟りとほぼ同じと考えてよい。
往生(ut-pad)
智慧第一と言われる法然上人は、自らが悟りを得て成仏する器でないことを歎き、仏典を渉猟した結果、悟りを得る成仏をダイレクトに目指すのではなく、まず極楽浄土へと往生すること、これこそが我ら凡人に可能な成仏への道であると主張した。
往生とは"往って生まれる"こと、念仏すれば死に際して阿弥陀仏が建てた浄土という国に往って生まれることができ、そうしてこそ成仏が可能であるとした。成仏への道に、往生というステップを一つ挟んだのである。では浄土はいったいどこにあるのか。
未来は現在に実現している
親鸞聖人は、念仏すれば死を待たずしてただちに往生という。あるいは"如来にひとし"、"弥勒とおなじ"という。これは師たる法然上人と異なる考えなのか。また親鸞聖人は弥勒を弥勒仏と呼ぶ。弥勒は釈迦の次に現れるとされる未来の仏で、弥勒が仏となるのは56億7千万年後であり、今はまだ仏ではないのに親鸞聖人は弥勒(maitreya)を弥勒仏と呼ぶ。なぜか。それは弥勒は既に仏となることが決まっているから、今現在に既に仏だからである。悟りを得た者、正覚した者にとって、定まった未来は今現在に実現しているのである。今此処にありありと感じることができるのだから。
これは決して強引な論法ではない。すべてが現在によって定まった世界、決定論の世界である物理学では時間の過去や未来には意味がない。物理学では時間は逆転可能であり、過去へと進む粒子すら想定される。時間の前後というものには意味はないのだ。定まった未来は、今現在に実現しているのである。注意しておくと、量子力学は非決定論ではなく確率的決定論であり、時間の過去未来については同じである。
西方浄土(sukhaavatii)
未来は今現在に実現している、故に仏陀が極楽浄土は今既にあるというとき、浄土とは今現在に実現している遠い未来世界のことである。
浄土は遙か遠く西方にあるという。故に西方浄土と言う。西方とは何か。西方とは太陽の進み行く方向、時の進む方向、すなわち未来のことである。遙か遠く十万億仏土の彼方にある西方浄土とは、遙か遠く十万億仏土の未来に既に存在しているのである。
物理学の世界では、時間と空間は時空間として一体であり独立したものではない。十万光年離れた星へ行くということは、十万年以後の未来にそこに到達するということであり、十万光年離れた星から来るものは、十万年以前の世界から来たということである。故に遙か遠く十万億仏土の彼方の西方浄土へ往生するとは、遙か遠く十万億仏土の未来に往生するということなのである。
実際にどの程度の未来世界なのか。浄土を建設した法蔵菩薩は五劫(kalpa)の時間を思惟して成仏したという。一劫は43億2000万年、故に五劫=216億年である。宇宙は始まってからまだ137億年と考えられており、仮に宇宙開闢とともに思惟したとしてもまだ79億年残っていることがわかる。阿弥陀仏の浄土の建設は、弥勒仏の登場より後であると考えて良いだろう。
実は『無量寿経』に描かれる浄土には、昼と夜が存在しない。西方浄土の時代は既に太陽すら寿命を終えたほどの未来なのである。この世界では既に太陽は白色矮星なのだ。
時空の平等世界
『阿弥陀経』が描く西方浄土の世界の特徴は、そこにあるすべての存在が平等に自らの特性を発揮して輝くことである。自ら輝くのは、他者に照らされるのではなく、自己の可能性を存分に開花する理想世界ということである。この可能性の開花する平等世界という点が浄土の本質である。
しかし、そのときただそこにいるものが平等に可能性を開花するというだけでは真の平等ではない。阿弥陀仏=阿弥陀如来は、宇宙の平等、宇=空間、宙=時間を超えた平等を目指している。すなわち宇宙のすべての存在、過去に既に亡くなった者すらも救ってこそ、究極の平等なのである。故に阿弥陀如来は時空間を超えて、救うべき者を探して過去へ未来へと往来しているのである。
阿弥陀如来
阿弥陀仏は無量寿仏(Amitāyus)、無量光仏(Amitābha)とも言う。無量寿とは無限の寿命を持つということであり、時間を超越した存在ということである。無量光とはすべての場所にその慈悲の光が届くということであり、空間を超える存在ということである。すなわち阿弥陀如来は"時空間を超越する者"という意味を持つ。阿弥陀如来とは未来世界から、過去に思いを残し去った者たちを救うべく現れる、未来世界からの使者なのである。
念仏者の元には、阿弥陀如来が勢至菩薩と観音菩薩を従えて迎えに来るとされる。そして行き着く先は遙か未来世界の浄土である。浄土は客観的に数十億年の遙か未来といっても、そこに行くときは主観的には一瞬である。朝目覚めるが如く、主観的な時間は流れないからだ。
阿弥陀如来は過去に未来にと自在に時空を超越するが、何ら物理法則に違反しない。阿弥陀如来は過去の精神を未来へと連れていくだけで、過去へと逆行させるわけではないからだ。死と共に宇宙へと拡散した精神を回収し、未来にて再構成しているだけである。未来へのタイムトラベルは何ら物理法則に違反するものではない。死によって世界への影響力を失ってから阿弥陀如来が現れるのであるから、タイムパラドックスも存在しないのである。
バタフライ効果/過去は現在に生きている
阿弥陀如来はどうやって過去の人を救い、浄土へと連れていくのか。既にいない人がどうして未来に生まれるというのか。阿弥陀如来の救済の原理を教えてくれるのが複雑系理論のバタフライ効果である。バタフライ効果とは、アマゾンを舞う一匹の蝶の羽ばたきが、遠く離れたシカゴに大雨を降らせるというような、通常なら無視できると思われるような極めて小さな差が、やがては無視できない大きな差となる現象のことを指す。すなわち極めて小さな過去の差も現在に隠れているのだ。
過去は失われずに現在の中に隠れ、現在に力を行使し続ける。故に死者もまた過去に生きており、過去は現在に保存されている。精神は死んで消え去るのではなく、宇宙へと希釈されて宇宙と一体となるのである。そして阿弥陀如来は精神を宇宙から抽出する存在なのである。
念仏(buddha-anusmRti)
念仏とは、南無阿弥陀仏を称えること。南無はインドの挨拶のナマステの語頭と同じ語源で、帰依するという意味。南無阿弥陀仏とは阿弥陀仏に従うという宣言である。法蔵菩薩の平等と可能性の開花の世界の建設に賛成票を投じるという意味である。世界の苦しみの中で、菩薩として生きることができないものでも、ただ念仏することで、浄土の理想に賛成を示し、その協力者となるだけでも救われるのである。
なぜ念仏が必要なのか。それは意思表示である。自ら浄土へ往生したいことを明らかにする必要があるからである。これはドナーカードのようなものと思えばよいだろう。生前の内に意志を明らかにしてこそ、死に際して阿弥陀仏が救うことができるのだ。阿弥陀仏は、自らの生涯に満足し可能性の開花に成功したものは救わない。なぜならその人は成仏したということ、この世界での役目を全うしたからである。必要ないからである。阿弥陀仏は宇宙のすべての存在が可能性の開花を達成する平等を目指している。浄土に往生せずとも可能性の開花した者には浄土は必要ないのである。
念仏は必ずしも南無阿弥陀仏という音とは限らない。地方や時代によって発音も違うはずである。鎌倉時代は"ナモアミダブ"であった。中国なら"ナンウーオミトゥォフォ"だし、韓国なら"ナムアミタブル"だろう。チベット語では"オンマニペメホン"という。英語でもヒンドゥー語でも発音は違うだろうし、もちろん手話でも構わない。あるいは究極の平等世界たる浄土建設に賛成という意味を込めた表現であれば言葉でなくともそれは念仏である。芸術家が阿弥陀仏への思い込めて作品を作ればそれは念仏と言える。必須なのは意志表示である。故に法然上人は、念仏は大きな声で叫ぶ必要はないが、自分の耳に聞こえる程度に声に出すのがよいでしょうと言う。
悪人正機
悪人とは生業として悪を為すもの、人を殺す武士、生き物を殺す漁師、性を売る遊女などである。生きるために仏教の定める悪から逃れられない存在が悪人なのである。武士、漁師、遊女、みな生きとし生けるものの平等を目指す仏陀の理想に反しているのは明白である。正機とは主要な対象の意味である。悪人正機とは、仏陀の理想に反する生き方しかできない人たちこそが阿弥陀仏が救済のために探し求める対象だということだ。
故に念仏していても、自ら選んで悪を為す者に阿弥陀仏の救いは来ない。なぜなら自らの意志で選んでいるからである。この世界で思うままに生きることができた者は、悪を為す者も善を為す者も阿弥陀仏の救いの対象ではないのである。行為の善悪に関係なくどちらも自力だからである。自力で仏となった者に阿弥陀仏は必要ないし、自力で悪を選ぶ者にも阿弥陀仏の救いは来ない。阿弥陀仏は、すべての生きとし生けるものの可能性の開花を目指して、時空間を超えて働いているのだ。
他力
脳科学者のベンジャミン・リベットは、人が意志によって行動するとき、意図よりも速く脳が反応することを実験で証明した。人間の意図は、環境から集約されて生まれるのである。人間の意志というものにも、それ自体というものはなく、さまざまな関係から作り出されているのである。まさに自我は縁起により解消されるのである。
故に本来、人の行為には自力というものは有り得ない。他力とは、自らが宇宙の縁起の一部であることを自覚することである。故に縁起を知る者ならば、他力を感じることができるし、自らを自力と感じるならば縁起を知らぬ者である。
輪廻(Sangsāra)と業(karman)
仏陀は果たして輪廻を説いたのであろうか。実は出家の弟子に霊魂など哲学的問題を聞かれ、毒矢の例えにより、無記をもって答えている。毒矢を受けた人間はまず解毒することが大事なのであって、矢を射たのが誰かとか弓や矢の材質を問うような場合ではないと答えたのである。これらの問題は考える必要がない、人間はそういう立場にないというのが仏陀の無記の答えである。
問題は、在家の弟子へとの対話では、地獄も来世も輪廻も出てくることだ。この違いは何か。仏陀の対話は対機説法と呼ばれ、相手に合わせてわかりやすい言い方をするということである。仏陀の生きた時代のインドにおいて地獄も来世も輪廻も常識であった。出家した弟子はたっぷりと修行する時間があるが、在家の弟子はそうではない。無記ではわかりにくい在家信者のため彼らの常識を使って悟りへの道を説明したということなのである。仏陀の言葉に輪廻も地獄も出てくるが、それは悟りを説明するためであって、輪廻や地獄そのものを説いた言葉はないのである。
業(karman)とは何か。『ミリンダ王問経』で仏陀は、人が一人一人違うのはなぜかと質問されたとき、果物が種類よって違うのは種が違うからであり、人間が違うのも同じで業が違うからだと答えている。現代人ならば、果物の種類は遺伝子が決めることを知っている。故に、仏陀が業という言葉で見ていたものは遺伝子とわかる。
仏教では生きとし生けるものを尊重し助けようとする。虫すら殺さないのは、それが先祖の転生かもしれないからである。現代人なら、すべての地球上の生き物が血縁関係にあることを知っている。進化論は数百万年遡れば人類と類人猿が血縁関係にあることを、数千万年遡れば猿と血縁関係があることを、数億年遡れば昆虫とも血縁関係があることをあきらかにしている。仏陀が輪廻という言葉で見ていたものは進化論なのである。
慈悲のミーム(meme)
法然上人は、自分がこの世に現れたのは三度目であるという。一度目は仏陀の弟子として、二度目は善導大師として、そして今、源空=法然としてここにいるということを述べている。善導大師とは念仏三昧に生き浄土の教えを広めた人物である。最初の無名の仏陀の弟子もまた念仏により修行した人物なのであろう。法然上人は念仏三昧に生きることで、念仏そのものになっているのだ。念仏のミーム(meme)と化した故に三度目の転生なのである。
聖徳太子は、世間虚仮,唯仏是真(ありとあらゆるものは空であり実体を持たず変転する中で、ただ仏のみが真である)という言葉を残した。あらゆるものは空(śūnya)であり実体を持たない。例えば、人間の体を構成する物質は一秒一秒休まずに入れ替わっていき、一年後には人間を構成する分子のほとんどすべてが入れ替わってしまう。私を構成する物質ですら、何ら固定したものはないのだ。世界はまさに空、世間虚仮なのである。
仏=阿弥陀如来は宇宙の救済意志であるといい、それは慈悲(maitrī)とも呼ばれる。慈悲は一般に言う愛と少し異なり、男女間ではなく親子のような一方的に与える愛を言う。仏の本質は慈悲=愛なのである。対等な人間同士の愛は時に代償を求める。しかし対価を求める愛では対価を受け取ったときに消えてしまう。親子の愛は異なる。親は子に見返りを求めて愛するのではない。親から子へと受け渡された愛は、子が親となりまた子へと受け渡される。慈悲の愛は無償故に時を越えて生き続けるのだ。
"世間虚仮,唯仏是真" ―― すべてが幻のように移ろいゆくこの世界でも、ただ慈悲の愛のみは永遠である。
法蔵菩薩(Dharmakara Bodhisattva)
法蔵菩薩は五劫=216億年の時間を思惟して成仏した。この長さは一人の人間のものではない。理想を抱く無数の生命たちの転生の末の結果なのだ。実はサンスクリット版の『無量寿経』には法蔵菩薩が一人ではないことを示唆する一文がある。すなわちこの穢土たる娑婆で、生きとし生けるものすべてがその可能性を開花する理想世界の建設を目指し苦闘する者たち、彼ら/彼女らのすべてが法蔵菩薩なのである。
☆☆☆ 参考&お勧め書籍 ☆☆☆
江部鴨村
『宗教概論』
百華苑
1971
金松賢諒
『自然(じねん)』
文明堂
1988
梶村昇
『法然上人伝〈上〉』
大東出版社
2013
梶村昇
『法然上人伝〈下〉』
大東出版社
2013
デイビッド・ブレイジャー
『フィーリング・ブッダ:仏教への序章』
四季社
2004
丘山新
『菩薩の願い:大乗仏教のめざすもの』
NHKライブラリー
2007
梶村昇
『法然』
角川選書
1970
増谷文雄
『法然と親鸞』
在家仏教協会
1959
藤本浄彦
『〈いのち〉へのめざめ:生き方としての浄土教』
浄土選書
2002
藤吉慈海
『阿弥陀経講話:附 般若心経の話』
山喜房仏書林
1974
羽渓了諦
『仏教の真髄』
仏教伝道協会
1974
大野正雄
『仏教のすすめ:人々の疑問に答えつつ』
百華苑
1970
物事すべてに因(原因 hetu)と縁(条件 pratyaya)がある。これが仏陀の教えの中核たる縁起である。これだけだと簡単に思える。ところが仏陀は「私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである」と言い、誰にも理解できないだろうから説くのは止めようと考えていた。いったい何が難しいのか。それは縁起の論理の厳密性と絶対性のためであった。
縁起が述べることは、無から有が生じることはなく、有が無になることもないし、偶然や奇跡で何かが生じることもなく、ただ法(dhárma)に基づいて変転していくのみという、徹底した決定論であるが、にもかかわらず運命論ではない。なぜなら我々は世界の一部、すなわち縁起の一部を構成する存在だからである。
悟り(bodhi)
縁起の教えは、世界の変化には定まったことと、定まっていないことがあることを教えてくれる。そして、この過去から未来へと決定していることと、決定していないことを切り分けることが悟りである。この世界には変えられることと、変えられないことがあることを知ること、これが悟りへの第一歩である。変えられないことを諦め、変えられることに尽くせば、そこに悩みはなく、苦(duskha)から解き放たれることはわかるであろう。
実際には、決定していることを変えようとしてもがき苦しみ、決定していないことなのに努力せずに放縦に生きてしまうのが人間である。事象の決定と非決定の区別を惑わせるのが煩悩(kleśa)≒感情であり、分別(vi-kalpa)=先入観である。仏陀はその煩悩や分別を滅却するためのトレーニングを考えて布教したのである。
この問題はキリスト教でも気づいていて、いわゆるニーバーの祈り(変えられるものを変える勇気、変えられないものを受け入れる冷静、それらを区別する知恵を求める祈り)は仏陀の悟りとほぼ同じと考えてよい。
往生(ut-pad)
智慧第一と言われる法然上人は、自らが悟りを得て成仏する器でないことを歎き、仏典を渉猟した結果、悟りを得る成仏をダイレクトに目指すのではなく、まず極楽浄土へと往生すること、これこそが我ら凡人に可能な成仏への道であると主張した。
往生とは"往って生まれる"こと、念仏すれば死に際して阿弥陀仏が建てた浄土という国に往って生まれることができ、そうしてこそ成仏が可能であるとした。成仏への道に、往生というステップを一つ挟んだのである。では浄土はいったいどこにあるのか。
未来は現在に実現している
親鸞聖人は、念仏すれば死を待たずしてただちに往生という。あるいは"如来にひとし"、"弥勒とおなじ"という。これは師たる法然上人と異なる考えなのか。また親鸞聖人は弥勒を弥勒仏と呼ぶ。弥勒は釈迦の次に現れるとされる未来の仏で、弥勒が仏となるのは56億7千万年後であり、今はまだ仏ではないのに親鸞聖人は弥勒(maitreya)を弥勒仏と呼ぶ。なぜか。それは弥勒は既に仏となることが決まっているから、今現在に既に仏だからである。悟りを得た者、正覚した者にとって、定まった未来は今現在に実現しているのである。今此処にありありと感じることができるのだから。
これは決して強引な論法ではない。すべてが現在によって定まった世界、決定論の世界である物理学では時間の過去や未来には意味がない。物理学では時間は逆転可能であり、過去へと進む粒子すら想定される。時間の前後というものには意味はないのだ。定まった未来は、今現在に実現しているのである。注意しておくと、量子力学は非決定論ではなく確率的決定論であり、時間の過去未来については同じである。
西方浄土(sukhaavatii)
未来は今現在に実現している、故に仏陀が極楽浄土は今既にあるというとき、浄土とは今現在に実現している遠い未来世界のことである。
浄土は遙か遠く西方にあるという。故に西方浄土と言う。西方とは何か。西方とは太陽の進み行く方向、時の進む方向、すなわち未来のことである。遙か遠く十万億仏土の彼方にある西方浄土とは、遙か遠く十万億仏土の未来に既に存在しているのである。
物理学の世界では、時間と空間は時空間として一体であり独立したものではない。十万光年離れた星へ行くということは、十万年以後の未来にそこに到達するということであり、十万光年離れた星から来るものは、十万年以前の世界から来たということである。故に遙か遠く十万億仏土の彼方の西方浄土へ往生するとは、遙か遠く十万億仏土の未来に往生するということなのである。
実際にどの程度の未来世界なのか。浄土を建設した法蔵菩薩は五劫(kalpa)の時間を思惟して成仏したという。一劫は43億2000万年、故に五劫=216億年である。宇宙は始まってからまだ137億年と考えられており、仮に宇宙開闢とともに思惟したとしてもまだ79億年残っていることがわかる。阿弥陀仏の浄土の建設は、弥勒仏の登場より後であると考えて良いだろう。
実は『無量寿経』に描かれる浄土には、昼と夜が存在しない。西方浄土の時代は既に太陽すら寿命を終えたほどの未来なのである。この世界では既に太陽は白色矮星なのだ。
時空の平等世界
『阿弥陀経』が描く西方浄土の世界の特徴は、そこにあるすべての存在が平等に自らの特性を発揮して輝くことである。自ら輝くのは、他者に照らされるのではなく、自己の可能性を存分に開花する理想世界ということである。この可能性の開花する平等世界という点が浄土の本質である。
しかし、そのときただそこにいるものが平等に可能性を開花するというだけでは真の平等ではない。阿弥陀仏=阿弥陀如来は、宇宙の平等、宇=空間、宙=時間を超えた平等を目指している。すなわち宇宙のすべての存在、過去に既に亡くなった者すらも救ってこそ、究極の平等なのである。故に阿弥陀如来は時空間を超えて、救うべき者を探して過去へ未来へと往来しているのである。
阿弥陀如来
阿弥陀仏は無量寿仏(Amitāyus)、無量光仏(Amitābha)とも言う。無量寿とは無限の寿命を持つということであり、時間を超越した存在ということである。無量光とはすべての場所にその慈悲の光が届くということであり、空間を超える存在ということである。すなわち阿弥陀如来は"時空間を超越する者"という意味を持つ。阿弥陀如来とは未来世界から、過去に思いを残し去った者たちを救うべく現れる、未来世界からの使者なのである。
念仏者の元には、阿弥陀如来が勢至菩薩と観音菩薩を従えて迎えに来るとされる。そして行き着く先は遙か未来世界の浄土である。浄土は客観的に数十億年の遙か未来といっても、そこに行くときは主観的には一瞬である。朝目覚めるが如く、主観的な時間は流れないからだ。
阿弥陀如来は過去に未来にと自在に時空を超越するが、何ら物理法則に違反しない。阿弥陀如来は過去の精神を未来へと連れていくだけで、過去へと逆行させるわけではないからだ。死と共に宇宙へと拡散した精神を回収し、未来にて再構成しているだけである。未来へのタイムトラベルは何ら物理法則に違反するものではない。死によって世界への影響力を失ってから阿弥陀如来が現れるのであるから、タイムパラドックスも存在しないのである。
バタフライ効果/過去は現在に生きている
阿弥陀如来はどうやって過去の人を救い、浄土へと連れていくのか。既にいない人がどうして未来に生まれるというのか。阿弥陀如来の救済の原理を教えてくれるのが複雑系理論のバタフライ効果である。バタフライ効果とは、アマゾンを舞う一匹の蝶の羽ばたきが、遠く離れたシカゴに大雨を降らせるというような、通常なら無視できると思われるような極めて小さな差が、やがては無視できない大きな差となる現象のことを指す。すなわち極めて小さな過去の差も現在に隠れているのだ。
過去は失われずに現在の中に隠れ、現在に力を行使し続ける。故に死者もまた過去に生きており、過去は現在に保存されている。精神は死んで消え去るのではなく、宇宙へと希釈されて宇宙と一体となるのである。そして阿弥陀如来は精神を宇宙から抽出する存在なのである。
念仏(buddha-anusmRti)
念仏とは、南無阿弥陀仏を称えること。南無はインドの挨拶のナマステの語頭と同じ語源で、帰依するという意味。南無阿弥陀仏とは阿弥陀仏に従うという宣言である。法蔵菩薩の平等と可能性の開花の世界の建設に賛成票を投じるという意味である。世界の苦しみの中で、菩薩として生きることができないものでも、ただ念仏することで、浄土の理想に賛成を示し、その協力者となるだけでも救われるのである。
なぜ念仏が必要なのか。それは意思表示である。自ら浄土へ往生したいことを明らかにする必要があるからである。これはドナーカードのようなものと思えばよいだろう。生前の内に意志を明らかにしてこそ、死に際して阿弥陀仏が救うことができるのだ。阿弥陀仏は、自らの生涯に満足し可能性の開花に成功したものは救わない。なぜならその人は成仏したということ、この世界での役目を全うしたからである。必要ないからである。阿弥陀仏は宇宙のすべての存在が可能性の開花を達成する平等を目指している。浄土に往生せずとも可能性の開花した者には浄土は必要ないのである。
念仏は必ずしも南無阿弥陀仏という音とは限らない。地方や時代によって発音も違うはずである。鎌倉時代は"ナモアミダブ"であった。中国なら"ナンウーオミトゥォフォ"だし、韓国なら"ナムアミタブル"だろう。チベット語では"オンマニペメホン"という。英語でもヒンドゥー語でも発音は違うだろうし、もちろん手話でも構わない。あるいは究極の平等世界たる浄土建設に賛成という意味を込めた表現であれば言葉でなくともそれは念仏である。芸術家が阿弥陀仏への思い込めて作品を作ればそれは念仏と言える。必須なのは意志表示である。故に法然上人は、念仏は大きな声で叫ぶ必要はないが、自分の耳に聞こえる程度に声に出すのがよいでしょうと言う。
悪人正機
悪人とは生業として悪を為すもの、人を殺す武士、生き物を殺す漁師、性を売る遊女などである。生きるために仏教の定める悪から逃れられない存在が悪人なのである。武士、漁師、遊女、みな生きとし生けるものの平等を目指す仏陀の理想に反しているのは明白である。正機とは主要な対象の意味である。悪人正機とは、仏陀の理想に反する生き方しかできない人たちこそが阿弥陀仏が救済のために探し求める対象だということだ。
故に念仏していても、自ら選んで悪を為す者に阿弥陀仏の救いは来ない。なぜなら自らの意志で選んでいるからである。この世界で思うままに生きることができた者は、悪を為す者も善を為す者も阿弥陀仏の救いの対象ではないのである。行為の善悪に関係なくどちらも自力だからである。自力で仏となった者に阿弥陀仏は必要ないし、自力で悪を選ぶ者にも阿弥陀仏の救いは来ない。阿弥陀仏は、すべての生きとし生けるものの可能性の開花を目指して、時空間を超えて働いているのだ。
他力
脳科学者のベンジャミン・リベットは、人が意志によって行動するとき、意図よりも速く脳が反応することを実験で証明した。人間の意図は、環境から集約されて生まれるのである。人間の意志というものにも、それ自体というものはなく、さまざまな関係から作り出されているのである。まさに自我は縁起により解消されるのである。
故に本来、人の行為には自力というものは有り得ない。他力とは、自らが宇宙の縁起の一部であることを自覚することである。故に縁起を知る者ならば、他力を感じることができるし、自らを自力と感じるならば縁起を知らぬ者である。
輪廻(Sangsāra)と業(karman)
仏陀は果たして輪廻を説いたのであろうか。実は出家の弟子に霊魂など哲学的問題を聞かれ、毒矢の例えにより、無記をもって答えている。毒矢を受けた人間はまず解毒することが大事なのであって、矢を射たのが誰かとか弓や矢の材質を問うような場合ではないと答えたのである。これらの問題は考える必要がない、人間はそういう立場にないというのが仏陀の無記の答えである。
問題は、在家の弟子へとの対話では、地獄も来世も輪廻も出てくることだ。この違いは何か。仏陀の対話は対機説法と呼ばれ、相手に合わせてわかりやすい言い方をするということである。仏陀の生きた時代のインドにおいて地獄も来世も輪廻も常識であった。出家した弟子はたっぷりと修行する時間があるが、在家の弟子はそうではない。無記ではわかりにくい在家信者のため彼らの常識を使って悟りへの道を説明したということなのである。仏陀の言葉に輪廻も地獄も出てくるが、それは悟りを説明するためであって、輪廻や地獄そのものを説いた言葉はないのである。
業(karman)とは何か。『ミリンダ王問経』で仏陀は、人が一人一人違うのはなぜかと質問されたとき、果物が種類よって違うのは種が違うからであり、人間が違うのも同じで業が違うからだと答えている。現代人ならば、果物の種類は遺伝子が決めることを知っている。故に、仏陀が業という言葉で見ていたものは遺伝子とわかる。
仏教では生きとし生けるものを尊重し助けようとする。虫すら殺さないのは、それが先祖の転生かもしれないからである。現代人なら、すべての地球上の生き物が血縁関係にあることを知っている。進化論は数百万年遡れば人類と類人猿が血縁関係にあることを、数千万年遡れば猿と血縁関係があることを、数億年遡れば昆虫とも血縁関係があることをあきらかにしている。仏陀が輪廻という言葉で見ていたものは進化論なのである。
慈悲のミーム(meme)
法然上人は、自分がこの世に現れたのは三度目であるという。一度目は仏陀の弟子として、二度目は善導大師として、そして今、源空=法然としてここにいるということを述べている。善導大師とは念仏三昧に生き浄土の教えを広めた人物である。最初の無名の仏陀の弟子もまた念仏により修行した人物なのであろう。法然上人は念仏三昧に生きることで、念仏そのものになっているのだ。念仏のミーム(meme)と化した故に三度目の転生なのである。
聖徳太子は、世間虚仮,唯仏是真(ありとあらゆるものは空であり実体を持たず変転する中で、ただ仏のみが真である)という言葉を残した。あらゆるものは空(śūnya)であり実体を持たない。例えば、人間の体を構成する物質は一秒一秒休まずに入れ替わっていき、一年後には人間を構成する分子のほとんどすべてが入れ替わってしまう。私を構成する物質ですら、何ら固定したものはないのだ。世界はまさに空、世間虚仮なのである。
仏=阿弥陀如来は宇宙の救済意志であるといい、それは慈悲(maitrī)とも呼ばれる。慈悲は一般に言う愛と少し異なり、男女間ではなく親子のような一方的に与える愛を言う。仏の本質は慈悲=愛なのである。対等な人間同士の愛は時に代償を求める。しかし対価を求める愛では対価を受け取ったときに消えてしまう。親子の愛は異なる。親は子に見返りを求めて愛するのではない。親から子へと受け渡された愛は、子が親となりまた子へと受け渡される。慈悲の愛は無償故に時を越えて生き続けるのだ。
"世間虚仮,唯仏是真" ―― すべてが幻のように移ろいゆくこの世界でも、ただ慈悲の愛のみは永遠である。
法蔵菩薩(Dharmakara Bodhisattva)
法蔵菩薩は五劫=216億年の時間を思惟して成仏した。この長さは一人の人間のものではない。理想を抱く無数の生命たちの転生の末の結果なのだ。実はサンスクリット版の『無量寿経』には法蔵菩薩が一人ではないことを示唆する一文がある。すなわちこの穢土たる娑婆で、生きとし生けるものすべてがその可能性を開花する理想世界の建設を目指し苦闘する者たち、彼ら/彼女らのすべてが法蔵菩薩なのである。
☆☆☆ 参考&お勧め書籍 ☆☆☆
江部鴨村
『宗教概論』
百華苑
1971
金松賢諒
『自然(じねん)』
文明堂
1988
梶村昇
『法然上人伝〈上〉』
大東出版社
2013
梶村昇
『法然上人伝〈下〉』
大東出版社
2013
デイビッド・ブレイジャー
『フィーリング・ブッダ:仏教への序章』
四季社
2004
丘山新
『菩薩の願い:大乗仏教のめざすもの』
NHKライブラリー
2007
梶村昇
『法然』
角川選書
1970
増谷文雄
『法然と親鸞』
在家仏教協会
1959
藤本浄彦
『〈いのち〉へのめざめ:生き方としての浄土教』
浄土選書
2002
藤吉慈海
『阿弥陀経講話:附 般若心経の話』
山喜房仏書林
1974
羽渓了諦
『仏教の真髄』
仏教伝道協会
1974
大野正雄
『仏教のすすめ:人々の疑問に答えつつ』
百華苑
1970
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