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ユーモアとは何か? [OPD]

humor
 Anything that is funny, whitty, or amusing, or that has the capacity to make people laugh.
 Most forms of humour can be classified into the following categories: innuendo, pun/wordplay, mimicry/parody/satire, irony/sarcasm, exaggeration, analogy/comic metaphor, inappropriate response, comic repetition, reversal of reality, black humour.

ユーモア
 こっけいだったり、機知が利いていたり、愉快なもの。あるいは人々を笑わせるもの。
 ほとんどのユーモアの形式は以下のカテゴリーに分類される。ほのめかし、しゃれ/言葉遊び、物まね/パロディ/風刺、皮肉/あざけり、誇張、類推/喜劇的隠喩、不適切な反応、喜劇的反復、現実の逆転、ブラック・ユーモア。


Q.ユーモアとは何か?
 興味から分岐した感情に、可笑しさがある。面白いジョークを聞いたりすると、腹を抱えて笑ったり、ぷっと吹き出したりする。笑いをこらえようとして赤面することもある。そしてこうした可笑しさを生み出させる行為を、ユーモアと呼ぶ。
 人間の生活においてユーモアのセンスは大切であるが、このしくみは意外と知られていない。人はどんなときに可笑しさを感じるのか、可笑しさを与えるユーモアはどうすれば作り出せるのか?
 そのためにはまず可笑しさという感情がなぜ進化の中で発達したか、すなわち可笑しさが快感である理由を考えると解決へと結びつく。
 快感とは、その状態の継続、再体験へと向かわせるもの。しかし、われわれの知っている可笑しさは、それだけを自分で作り出すことが難しく、多くは他者に与えられるものである。漫才なども、観客としてはじめて可笑しいと感じる。再体験したくとも、自分でその状態を作り出すことは難しい。
 感情発達の土台である狩猟採集生活について考えてみよう。その時代にどうやって可笑しさを作り出すことができるのか。
 子供の頃に戻ればわかる。いたずらしたり、ふざけるとが可笑しさを生み出すことができる。子供はいたずらしたり、からかうのが大好きだ。英語では「Are you kidding?ふざけているの?」といい、子供とは、からかう、ふざける存在なのだ。
 子供はなぜいたずらするかというと、おもしろいからだ。すなわち、その状況が可笑しく快感だからだ。当然、子供がいたずらすることには何か自然淘汰される有利さがあるのである。
 いたずらの淘汰上の価値の一つ目は、他者との距離を測ること、対人行動の範囲──何をしてよく、何をしてはいけないか──を認識するためである。そのためそれが十分に認識できるようになった大人では、いたずらは少なくなる。
 二つ目は、信頼関係の強化である。いたずらの特徴は、見た目は攻撃だが実害がないということ。本当の攻撃ではないから、その後、笑うという極めて無防備な状態になることにより、攻撃を否定するのである。腹を抱えて笑う態勢など防御能力0の危険な状態を示して、攻撃であり、それがトリックであることを表明しているのである。
 人間には失敗や勘違いがつきものだ。そうしたとき、相手にちょっとした損失を与えてしまうこともあるだろう。それを敵対的なものと感じて怒りだすようでは、信頼関係がすぐに壊れてしまう。お互いに偽の攻撃としてのトリックを経験しあうことにより、信頼関係を安定させることができるのである。
 三つ目は、相手の注意をひくためである。こちらに注目してほしいとき、相手の関心を自分に向けてほしいときの行動である。そのため、恋愛、嫉妬などでも採用される。
 偽の攻撃とは、驚かせることともいえる。偽の攻撃とは、一見攻撃に見えるもの、形式だけの攻撃で、相手がそれにたいして防衛体制をとったところで、「攻撃じゃないよ」という意味で笑うのである。
 例えばお笑いタレントにすぐ裸になる人がいるのは、裸になることが偽の攻撃だからである。相手は嫌がるが、あまり実害はないからだ。ヌーディストビーチでするとギャグにはならない。
 ものまねが面白いのは、まねされるタレントへの偽の攻撃だからである。子供のころ学校の先生のものまねをして人気者になる同級生がいたはずだ。
 こうしたいたずら――トリックは、大人になるにしたがい減少する。罪悪感が関係してくるのである。トリックをすると大人に叱られる。罪悪感がトリックの快感を上回ると、トリックはしなくなるのである。例えば大人はバラエティ番組で食べ物を粗末にしてふざけていると、教育的でないと嫌がる。食べ物を粗末にすることが罪悪感に触れるためである。

●ユーモアとは平等による葛藤回避の技術
 漫才やコントなどでは、オチが読めると笑いが半減する。予想できてしまうと、可笑しさが減ってしまうのだ。これはなぜか?
 トリックの結果が予想できるのは、トリックの実行者と、それを見ていて止めなかった人である。予想できるということは、自分をトリックの実行者の立場に立たせ、罪悪感が可笑しさを抑えてしまうのである。
 しかし、わざとか無意識か、つまらないネタを連発し、その場をいったん白けさせて、笑いをとるという複雑なこともできる。
 つまらないギャグをいった後に、つっこむと笑いをとれるのは、笑えないタレントがトリックの被害者の表現となっているためである。いわゆるぼけのタレント、松村邦彦、村上ショージなどがこの手法である。
 可笑しいのはなんらかの失敗行動であることが多いが、それがどうして失敗したのか理解できないと笑えない。雪の積もった道で滑って転ぶのを見かけると可笑しいと感じるが、アスファルトの道路で重力がなくなったかのように浮き上がって転んだとしたら、超常現象と思って驚くだろう。可笑しいと思えるには、その対象の失敗がどのようなしくみで発生したのかを知らなければならず、しくみがわからない失敗にたいしては可笑しさを感じないのである。
 これはなぜかというと、そのことがトリックの被害者の立場に立たせるためである。トリックの被害者は、その瞬間何が起こったかわからない。そのときのような、自分がトリックにひっかかったような気分になるのだ。
 またもし転んだ人が血まみれになって動かなくなったなら笑えない。重大なことは笑えないのである。この場合は、恐怖や驚きなど異なる感情の力がはたらいて可笑しさを追い払ってしまうためである。
 また、笑われた対象と同じ側にいると笑えない。笑われたのが、自分の子供だと笑うのはほとんど不可能だ。この理由も、自分がトリックにひっかかったような気分になるからである。
 しかし、自分が笑われた場合でも、責任が追求されないようなリラックスした状況では一緒に笑うこともある。自分を客体として対象化するからである。もちろん失敗の責任が自分にふりかかるような状況なら笑えない。
 自分が笑われた場合でも、責任がないと笑うことができるのは、トリックの観客へと視点を移動できるためである。
 これで、だじゃれの原理も説明できる。
 だじゃれは、二種類に分けられる。言った後で、みんなが「オーッ」と感心して笑うようなものと、「そうじゃない」とみんなにつっこまれるものである。
 前者のだじゃれは、意図的な言い間違いを意味している。意図的ないい間違いというのは、トリックの一種なのだ。相手のいったことがトリックにひっかかった状態であることを示しているのである。
 後者のだじゃれは、トリックの被害者の反応である。自分がいまだに勘違いしたままであること、すなわち、トリックをこうむった後の混乱と動転を表現しているのである。
 だじゃれは言葉のトリックということができる。

●ユーモアの三項構造
 可笑しさの複雑さがもたらす効果に、次のようなものもある。好きな人や身近な人の悪口を自分でいうのは平気なのに、他人にいわれると腹が立つということだ。
 好きな人、身近な人とは自己と同じ側である。だから、好きな人を悪口を第三者にいう場合は、自分の失敗を語って笑ってもらおうとするのと同じ。これらは、言葉のトリックであり、偽の攻撃であるので、笑顔でいうのが普通で、本当に嫌そうな表情はしていない。本当に嫌そうな表情なら、本当の攻撃、本当の悪口である。
 ところが、もし相手が同調して悪口をいい出すと、それは自分の悪口をいわれるのと同じになってしまい嫌な気分になるのだ。
 自分や身近な存在の悪口をいうのは、ユーモアとして、相手に笑ってもらうためにいうのであり、相手に意見や同調を求めてはいないのである。
 こうしたユーモアは、いろいろな形で現れる。たとえば、あだ名というものは、ユーモラスに響く。それは弱い攻撃だからである。
 業界の専門用語というものは、弱い攻撃で構成されていることがしばしばある。タクシーの長距離客を「幽霊」と呼ぶのは、めったにいない珍しいことだからだが、幽霊という言葉にはかすかに攻撃が含まれている。
 この可笑しさを生む偽の攻撃は、本当の攻撃と区別するのが難しいものだ。相手の気持ちになって判断しなければならない。ユーモアのつもりで女性にセクハラしてしまうことにもなりかねないのである。偽の攻撃でも、攻撃された被害者は喜ばないからだ。
 テレビの番組で、ダウンタウンや明石屋さんまが女性を泣かせてしまうことがあるのはこのためである。彼らはテレビによる「作りものの世界」効果を利用して、日常では許されないような強い攻撃で笑わせる。テレビだからどんなに強く攻撃しても視聴者には偽の攻撃として認められるのである。しかし、それに慣れていない若いタレントは、その現場にいるわけだから、偽の攻撃と受け取れず泣いてしまうことがあるだ。
 ユーモアの攻撃は目下の人に向けてはいけない。ユーモアはお互いにからかい合うからこそ信頼関係が深くなるのであり、立場上反論できない目下の人に向けると、ただの嫌がらせになってしまうのだ。同格の友人に向けるのが基本である。目上への偽の攻撃は諷刺、同格ならユーモア、目下なら嫌がらせとなるのである。
 諷刺はユーモアに似ているが、被害者たる目上の人物との信頼関係を強化する効果はない。また、目上の人から下へとユーモアを返すこともなく、その機能や効果がユーモアとは異なる。
 もし、ユーモアあふれる人になりたいのなら、第三者への弱い攻撃か偽の攻撃をするか、自身が攻撃されたかのような戸惑ったふるまいをすることである。しかもそれは、予想できない行為でかつ相手に理解できるものでなくてはならない。
 ユーモアは、三つの要素が欠かせない。仕掛け人、被害者、観客の三つである。
 凍った道で滑った人が可笑しいという場合、仕掛け人=天気、被害者=滑った人、観客=あなたとなる。
 自分の失敗談で笑わせる場合は、仕掛け人と被害者を一人で兼任しているし、社会風刺では社会が被害者となる。
 TVドラマのパターンとして、見かけのさえない主人公が実はとても有能で、周囲がそれを知らないというのがある。必殺仕事人の中村主水など。これが面白いのは、仕掛け人=作者あるいは主人公、被害者=敵や周囲の人、観客=視聴者という形でユーモアを満たしているからである。
 漫才が通常二人なのも、この三つの要素を正確に満たしているためである。仕掛け人=つっこみ、被害者=ぼけ、観客=観客なのである。
 ユーモアあふれる人になりたい、そう思うなら、まずこの三要素を正確に認識し、偽の攻撃の程度をマスターするとよい。特に注意すべきことは、仕掛け人と被害者、すなわち舞台の漫才師たちは自分で笑うわけではないことである。笑うのは、あくまでも観客のみである。笑わせたい相手を間違って被害者にしてしまう人が多いので、ここは要注意である。
 可笑しさはトリック行為における実行者及び被害者ではない偶然の傍観者を体感することで生まれるのである。ここでいうトリックとは、子どもによく見られるいたずらや大人のジョークなどを示す。
 大人は、可笑しさ認識のための三項関係――仕掛け人・被害者・観客からなるフレームを持っていて、状況を認知したときに自分が観客であると認識すると可笑しさを感じるのである。

●葛藤回避の最高次元としてのユーモア
 可笑しさは、興味から分岐した感情である。可笑しさは、興味の対人行動から評価による分岐によって生まれた感情である。ただし、罪悪感を生む部分が削除される。
 可笑しさ高度な社会関係が要求される動物にのみある。
 集団で生活する動物は、お互いのテリトリーを共有しあう必要がある。そのため、ボスを中心とした順位性によりそれを緩和する。人類ではそこにユーモアが加わる。ユーモアは、相互に偽攻撃することにより、お互いのテリトリーを重複したままで順位なしに許容しようとするものなのだ。ユーモアは対等を意味するのである。
 もしも、攻撃されることに敏感で、弱い攻撃、偽攻撃のすべてを攻撃として解釈すると、人間関係がうまくいかない。大人になっても他人と距離をおいてしか付き合えず、誰かを全面的に信頼することのできない人は、子供時代のいたずらの経験が不足しているのかもしれない。
 可笑しさは、人類だけか、一部の類人猿にはあるかもしれない。
 手話を教えられたゴリラのココに、白いタオルを見せて色をたずねると、赤いと答えた。何回聞き直しても同じ答えである。ところが、そのタオルをよく見ると赤い糸くずがついていたという。これは、相手の能力を低さを主張する攻撃の形をとっており、偽攻撃であるかもしれない。

☆☆☆☆☆ ユーモアの条件のまとめ ☆☆☆☆☆
・仕掛け人、被害者、観客の三要素を満たす
 大人は仕掛け人、被害者、観客の三要素からなる認識のフレームを持っていて、自分が観客であると認識したとき可笑しさを感じる。
 笑わせたい人を、攻撃行動の傍観者になるように場を作る。

・笑う人は観客のみ
 笑わせたい人を観客にすること。被害者=攻撃対象は笑わせたい人とは別に設定する。被害者=攻撃対象は笑わせたい人の身内や大切な人など同一化しやすい対象ではいけない。 
 オチがわかってはいけない。オチがわかるのは仕掛け人であり、観客ではない。罪悪感が生まれやすい。
 なぜそうなるか理屈が理解できなければならない。理解できないのは被害者の視点だからである。恐怖、驚きが生まれやすい。

・適切な強度を保つ
 過剰に攻撃的ではいけない。被害者が可哀想に感じるほどではいけない。
 毒舌タレントの発言が笑いを生むには、その攻撃をする理由が理解できること、過剰に深刻でないこと、毒舌の対象が観客の自己同一化する相手ではないことなどが必要となる。

・ユーモアの本質は攻撃形式
 いじめの場面は憤りを覚えるが、ちょっとした悪ふざけしている子供たちを見ているのが可笑しいのは、強度の違いにある。
 このために有効なのが、各種の笑い理論で指摘される認識のずれを利用する方法である。ずれによって攻撃を的外れなものにし、強度を弱めることができるからである。従って認識のずれ自体は笑いやユーモアにとって本質的なものではない。小さな子供たちがじゃれあって遊んでいるのを見るのは面白いが、ここには認識のずれというものはないのである。

・ユーモアの進化
 ユーモアは子供の失敗を許容するために生まれたもの。また大人はユーモアを相互に交換することで、お互いが平等であることを認識する。

・ユーモアの誤解例
 一般人に多いのが笑わせたい相手を攻撃してしまうこと。笑うのは被害者ではなく観客なので、第三者か自分をネタ=被害者にしなければならない。
 芸人に多い誤解は、何でもいいから奇妙なことをして笑いを取ろうとすること。奇妙な行為や発言がユーモアとなるには、その発言や行為が誰かへの攻撃の形式を持っていること、なぜそんなことをするのか笑わせたい相手に理解できなければならないのである。

明日、[OOD補足] アンジャッシュに学ぶユーモアの方程式へと続く。

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