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差別原論:〈わたし〉のなかの権力とつきあう [本(法律と犯罪]

『差別原論』
好井裕明(社会学者)
平凡社新書(2007)


差別を減らすにはどうすべきか考える・ただし欠陥あり。

どうもこの著者は差別というものをあまりわかっていないようだ。
差別を減らすにはどうすればよいのかを考えているのだが、
そもそも差別とは何かをわかっていないため、
微妙にずれたことを述べてしまっている。

はじめからわかりきっている当然のことを
執拗に確認することが差別を考えることかという問い。
これは確かに差別を考えることから遠ざけてしまうだろう。

そして、
差別とはしてはいけないこと、あってはならないことではない、
差別とはしてしまうもの、
減らすためにどうすればよいか考える手がかりだとする。

重度障害の子の介護に疲れた親の子殺し事件。
減刑嘆願がたくさんあったが、それに運動団体からの告発が起こる。
障害者は殺されても当然なのかと。
減刑するということは、
障害者の命は健常者より軽いということではないのかと。

刑罰の原理は、一般予防、特殊予防、応報刑の3つだが、
運動団体の告発は典型的な応報刑の考え方である。
従来の人権団体の考え方とはかみ合わないのが興味深い。
日本は西欧に比べて応報刑の考え方が根強いと思う。

差別発言をジョークで返すエピソード。
ジョークの本質は差別を笑い飛ばすことという。

ジョークやユーモアの本質は対等化である。
差別発言とは順位付け行動、自己の優越宣言であるので、
ジョークでそれを平等状態へ引き戻すのである。
ただし、上から下へのジョークは嘲笑であり、
下から上へのジョークは諷刺である。

この本は差別とは何かを考えるのによい本だが、
差別を考えるのに必要なのに言及されていないことがある。
それは以下の2つである。

1.生物学なしに差別は理解できない
この本の著者は
そもそも差別とは何かということを理解しているのか疑問を感じた。
差別とは"可能性の剥奪"である。
できるはずのことをできなくしてしまうのが差別なのである。

歪められたカテゴリーを、無批判に受容するこひとが差別につながる。
普段からどれだけカテゴリー化に自覚的になれるかという。

歪められたカテゴリーが歪んでいるかどうかを
どのように理解するのか、あるいは判定するのか。
これは自然科学、特に生物学の力が必要な部分である。
科学的にそのカテゴリーの可能性を正しく把握しなければ、
差別かどうか判定できないのである。

未成年が酒を飲むことが許されないのは未成年差別だろうか?
もちろん未成年の身体的未発達という生物学の知識があるから、
差別ではないとみなされるのだ。
酒を飲むことで、むしろその未成年の可能性が剥奪されるから
飲酒が許されないのである。

男女差別は、その能力において男女差がないと判明しているのに、
それを無視するから差別なのである。

だから能力差がある部分について、
例えばオリンピックの競技は種目がそれぞれ男女が分かれているが、
これが差別ではないのは、
身体運動能力には差があると生物学で認められているからだ。

性差別、部落差別、人種差別、民族差別……
すべては生物学の正しい知識があればこそ、
間違っていることが理解できるのである。
差別に対する教育とは、生物学を正しく学ぶということなのだ。

2.差別には差別発言と差別行為がある
本文には、先輩と言葉を巡って口論する部分がある。
差別語を口にした先輩に対して注意すると
「言葉だけの問題ではない、言葉尻を批判しても意味はない」
と先輩に言われ、
それに「私はこんな研究者にだけはなるまい」と思ったという。

これを読むと
著者が差別発言と差別行為の本質的な違いに気づいているのか
危うく感じさせられる。

差別は、差別発言と差別行為に分類される。
この二つは似て非なるものである。

差別行為とは、
就職差別のように実際の行為により不利益を与えるものだ。
◯◯というだけで、就職試験の成績がよいのに落とせば、
明らかに差別である。
女性の就職差別などは未だにまかり通っているのはいうまでもない。

対して差別発言とは、
差別行為を生み出したカテゴリーを発言することである
差別発言だけで差別行為がなくても差別とみなされるのは、
それが順位付け行動による威嚇、脅迫になるからだ。
ある上司が「女のくせに」とか言うのは、
自分が相手の上位者であることを認識させようとする行為である。
すなわち、差別行為は不利益そのもので直接攻撃だが、
差別発言は不利益の宣告、すなわち脅迫なのである。

これがわかっていれば、
人権団体の差別発言への糾弾行動に問題が多かったのもわかるだろう。
結局、脅迫に対して脅迫して返したに過ぎないからだ。
差別的優越性に対して、
道徳的優越性を持って君臨して威嚇しているからだ。
これは全くの対処療法であって本質的な解決にはならない。
実際、近年のマスコミで
人権団体がまるで利益団体のように非難されるようになっているのも
糾弾で受けた恨みが返ってきている部分があるだろう。
繰り返すが、正しい人権教育とは生物学を学ぶことである。

ジョークの力をどう評価するかは難しい。
ジョークによる返しは、差別発言を差別行動から分離する効果がある。
しかし、分離すると言うことは差別発言を消すことにはならず、
むしろ温存するという側面もあるので要注意である。
差別行動を減らす効果はあるが、差別発言が減るとは限らない。
「このおばはんが」という上司に「このおっさんが」と返し、
これがそのまま定着する可能性だってある。
この二人の間では、差別発言でなくジョークとなるかもしれない。
しかし、ジョークで返せない人とっては依然として差別発言である。

言葉狩りとどちらがよいのかは一長一短であろう。
どのように組み合わせるかは、
ケース・バイ・ケースで考えていくしかない。
あまりに強い差別行為をともなった言葉は禁止し、
弱いものは法律家の使う反対解釈をジョークで述べて返すしかない。

差別語を使えなくしても、新しい言葉を差別行為とともに使えば、
その言葉も新しい差別語になる。
被差別部落、という言葉は正式だろうが、いじめの場で、
"この部落が"と発言する人が多くなれば、
"部落"という言葉自体が差別語に変わり、新しい言葉が必要になる。
新しい言葉、"池沼"とか"DGN"なども差別語になるかもしれない。
2ちゃんねるに対して人権団体が訴訟を起こしていないのは、
彼らが差別発言とは何かを理解していない証拠だろう。
差別発言の氾濫は差別行為へのしきいを下げてしまうのに。

・今日の一言
生物学を理解せずに差別を無くすことはできない。
You cannot eliminate discrimination without understanding biology.
생물학을 이해할 수 없으면 차별을 없앨 수 없다.
不懂生物学不会消灭歧视。

タグ:好井裕明
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